料理という言葉は、元々現代語の料理とは違った意味で使われていたらしい。
改めて漢字を眺めてみると、料は「はかる」という意味だし、理は「おさめる」という意味だ。どうやら日本伝来以前の中国語でも、「物事の筋道を立てて、うまく処理する」という意味で使われていたようだ。だから、平安時代の日本でも、その場をうまく取り仕切るとか、処理する、治療するといった意味で使われている。
日本オリジナルの意味に変化
「料」という文字は「米」と「斗(ます)」の組み合わせ。分量を計るというのが元の意味らしいから、食事を作るという行為に結びつけられるのも不自然ではない気もする。ただ、中華大陸では元の意味で使われている時代が長かったという。中国が現代的な意味で料理という言葉を使うようになったのは、日本からの逆輸入によるものだそうだ。
単語そのものは海外のもの。でも日本で意味が変化した。特別珍しい現象というわけではない。
何を「はかる」のか
料の元の意味どおりなら、「分量を計る」だ。実際、古い医学書などでは薬の分量を計って調合することを料理と表現している。もしかしたら、医食同源の考え方から「食事を作る」という意味が派生したのかもしれない。
いつの頃からか「料理」には別の意味が追加されたようだ。一般的な解説書でも「食物を作る動作や献立を考えること。出来上がった食べ物のこと。」と理解されている事が多い。これに対して「調理」は「切る、加熱、調味などの作業や技術のこと。」と説明される。
つまり、料理という言葉は、調理により広い意味で使われている。
では一体、分量以外のなにをはかるようになったのだろう。私は「関係性をはかる」という意味で解釈したのではないかと思っている。
関係性をはかる
食事という行為には、いろんな要素が詰まっている。食材、食材が育った土壌、作った人、季節、気温、食べる人、調理する人、器、歴史文脈。もういろんな要素が絡み合っている。全部の要素の状態まで考えると気が遠くなるほど複雑だ。
例えばこんな具合だ。
今日の茄子はちょっと具合が良くないらしい。最近の気温や雨量を考えれば、つくる人も苦労されたことだろう。カツオは脂が乗っていて久しぶりの上物だ。きゅうりも瑞々しい。残念ながらミョウガや青じそのような香草は手に入らなかった。やってきた客人の顔を見たら、暑さにやられたのか少々疲れが溜まっている。あまり食欲がわかないらしい。
少しイメージが伝わるだろうか。
現実はもっと煩雑である。食材もっと多いし、客人それぞれに状態が違うだろう。遠方からやってきたのか、近所の人なのか。はかるべき関係性は山ほどある。そして、こういった込み入った状況に対して、「どのように関わっていくか」というのが料理という意味に含まれている。
ちなみに「家庭でそんなこと考えないよ。」と思う人がいるかも知れない。それはその通りである。
料理とは料理人の営みを指す言葉だったのだ。感覚的には「茶の湯は茶人の営み」というのに近いだろうか。「家庭料理」という言葉は近代化の流れの中で作り出された造語で、「ホーム茶道」くらいの斬新なコピーだったかもしれない。
一期一会と再現性
めちゃくちゃ複雑な関係性を「はかって」、「ととのえる」。しかも、関係性は毎回変わってしまう。だから、仮に同じ食材と人が同じ季節に揃ったとしても違う。つまり、一回限りなのだ。これが、いわゆる「一期一会」。再現性は全く無い。それが価値となっている。
これが、日本料理の世界観である。
と断言すると、少々言葉が強いかもしれない。けれども、こればっかりはしょうがない。老荘思想や禅、茶の湯などの系譜を引き継いで発展した日本料理は、歴史的にそういうものなのだ。
レシピというのは、料理の設計図と言える。設計図は「その通りに作れば、だいたい同じ物が作れる」という価値がある。再現性を高めるための知恵だろう。だから、結果として設計図そのものが価値になっていく。そこにはオリジナリティや新規性が求められるかも知れない。
さあ、「関係性を整える料理」と「複製可能な調理」のどちらが良いだろうか。と言いたくなるところだが、この問いそのものがナンセンスなのだと思う。どちらもあって、どちらも良い。それが現実なのだから。両方の価値観をもって、自在に行き来できるくらいがちょうど良いのだろう。
今日も読んでいただきありがとうございます。
2000年代に入った頃からかな。食産業を見ていると「複製可能な調理」の価値が大きくなっているように見えるんだよね。そういう意味では、もう少し「関係性を整える料理」を意識しても良いかも知れない。
そんなに難しいことじゃないと思うんだ。日本人の多くの人が無意識に「場の空気を読んで」態度を変えるでしょう。それこそ、関係性の調整そのものだもの。ちょっとしたことでも意識的になるだけで見える世界は変るんじゃないかな。