子どもたちが体育教室に通っている。体育館の中で跳び箱をやってみたり、でんぐり返しをしてみたり、時にはドッジボールや鬼ごっこに全力で興じている。たまに時間ができると見学に行くのだけれど、なぜか全く飽きない。
体を自由に動かす
走るのもジャンプするのも、身体感覚。当たり前だ。いくら頭で考えたところでできるようになるわけじゃない。スポーツの世界では「イメージが大切」と言われるけれど、そもそも「イメージ通りに体が動く」のでなければどうしようもない。
それに、普通の人は体を動かすときになにも考えていない。「あそこの段差はちょっと高いから、高めにジャンプしなくちゃ」とは思っても、「足を上げるぞ。次はその足を前に出して」などとは考えない。
ちょっとバランスが悪いところを歩く時に、イチイチ細かな動作を考えるのではなく「おっとっと」という「感覚」でバランスを取って歩くだろう。
言葉でわかること、考えながらできること、考えなくてもできること
「そんなこと言語化しなくても知っているよ。だって、やってるもの」と思うかも知れない。そうなのだ。運動機能に関しては、多くの人が自然に行っているし、それが当たり前だと思っているだろう。
だけど、「日常生活の身体性」の話になると、その感覚が薄くなることもある。それは一見すると「一生懸命頭で考えればわかること」として理解されているようだ。
「考えれば理屈はわかること」と「実際に体が動くこと」の間には大きな違いがあるのだけど、それは運動だけではなく生活の様々なことでも言えるのじゃないかと思っている。
さらに、「考えながらやればできること」と「無意識レベルでできること」の間にも、大きな違いがあるだろうとも思っている。
料理人の身体性
刺身を切る時も、野菜を切るときも、大根を薄く剥くときも、ぼくらはあまり「動作」については考えていない。どこにどの程度力を入れたら包丁をイメージ通りに動かせるかは、体がわかっている。だから、頭が考えるべきなのはもう一歩先。厚さや切り口の滑らかさなどである。
長年やっていると、「考えなくても済む領域」が広くなる。それは、知識や判断が身体に染み込んでいくということなのだろう。
例えば、「こんな感じの刺身の盛り合わせにしよう」とか「献立のこのタイミングでこんな煮物を出そう」と考える。すると、「どのくらいの厚さにするか」とか、「調味料になにを使うか」といった思考はほとんどしなくなる。もちろん味見はするし、何かしら考えてはいるのだけれど、そこにかけるエネルギーコストはめちゃくちゃ低い。
「献立どうしようかな~」というところには時間をかけるのだが、一度決めたらその後の行動には迷いが少ない。そのあたりを指して、「職人技」というのだろうと思っている。常人離れした技術だけではない、というのがぼくの解釈だ。
つまり、熟練とは「考える速度が速い」のではなく、「考えなくて良い領域が広い」こと。だから、より上位の判断に頭を使えるのだ。
これは「身体化された知性」と言い換えても良いかも知れない。
日常の身体性
職人というのは、毎日毎日同じことを繰り返して「身体化された知性」を手に入れている。それも「普通ではない」作業の繰り返し。だから、際立って見えるのだろう。
では、日常生活で毎日繰り返す行為はどうだろうか。きっと、同じことが誰の身体にも起きているはずだ。
朝起きてから家を出るまでのシーンを想像してみて欲しい。
いつも通りの日常、トイレに行って顔を洗って、それから朝食を食べる。人によっては眠気覚ましにシャワーを浴びるかも知れない。ぼーっとした頭でシャワーを浴びていると「あれ?リンスしたっけ?」とびっくりすることがある。
浴室での行動は、一定のパターンが決まっている人が多いらしい。順番が決まっている。だから、なにかの拍子に順番を入れ替えると次の行動がよくわからなくなってしまうという。その結果「あれ?リンスしたっけ?」に繋がるわけだ。
たぶん、この日の朝に考えたことは「出かける準備をしなくちゃ」とか「シャワーを浴びよう」といった、大まかな内容だけ。それよりも細かい行動については考えていないのだ。
この話はぼくの実体験。こんな人はあんまりいないだろうと思っていたのだけれど、話してみたら意外にも共感してくれる人がいて驚いた。
日常の身体性をもうひとつ
身体化されるのは、動作だけではないだろう。
例えばコミュニケーションだ。ぼくらは無意識のうちに、相手の表情を見て、声色や間、距離感などを「感じ取って」会話をしている。一つ一つのシグナルを言語化して分析しているわけではないだろう。
会話だけでなく、普段からお互いの距離感を調整しながら自分の態度を決めている。特に日本人はこうした距離感の調整をかなり細かくやっているらしい。外国人にそう指摘されて初めて意識したのだけど、できる人はほとんど無意識に行っていることだろう。
つまり、コミュニケーションを「身体化された知性」として身につけているのではないかと思うのだ。
一方で「コミュニケーション」は、身体性ではなく「勉強して頑張ればできるようになる」と思われやすいジャンルかもしれない。コミュニケーション技術に関する本を読むことは有用だけれど、読んだだけで上手になるわけじゃない。ましてや、心構えだけでどうにかなるものでもない。
それらはもちろん大切だけれど、そうしたことをイチイチ考えなくても反応できるくらいまで身体に染み込んで、初めて自在に使えるようになるのだろう。
これは、いろんな事例を観察してみて思っているだけに過ぎないのだけど、そう大きくハズレてはいないと思う。
「身体化された知性」を身に付けるには
子どもたちを見ていると、次々と果敢に跳び箱に向かっている。うまく飛べる子もいれば、立ち止まってしまったり、ペタンとお尻をついてしまったりする子もいる。
そのたびに、「そこで思い切ってジャンプ!」とか「いい感じ、もうちょっと腰を上げて!」とコーチの声が飛ぶ。子どもたちからも「がんばれ〜」と声がかかる。時々、コーチが横から手を出して補助をして、できる感覚を掴ませようとしている。
きっと、身体感覚を磨くっていうのは、こういうことなのだろう。失敗が失敗じゃなく、成長の過程だと捉えられる環境。補助やアドバイスがあり、自分以外の事例を観察する環境。そして、その中で果敢に何度も挑戦する意志。
そうやって、思い通りに体を動かす感覚を手に入れていくのだ。
そして、やがて「身体化された知性」へと近づいていく。
今日も読んでいただきありがとうございます。
考えたことを実践して身につけて、そして考えるという行為から離れていく。って、なんだか禅の「愚」という概念にも似ている気がする。いろいろ勉強して考えて、そして「わかった!」となったら、その答えから離れていく。答えを唯一無二の正解だと思い込んでしまうと、柔軟性がなくなっちゃうからね。
人によっては、「知性とは言葉を使って論理的に考えられたものだ」という人もいる。そういう定義だと主張されたこともある。確かにそうなのかもしれないよ。だけど、ぼくは身体性もひとつの知性だと思うんだよ。