S9-1 日本酒という日本の酒

日本酒とは、なかなか変わった名前が付いたものだ。当然のことだけれど、日本酒のことを日本酒などと呼ぶようになったのは最近のこと。
そもそも、イタリア酒とかアメリカ酒などとは呼ばない。中国酒は「中国の酒類」という総称の意味では使われる言葉であるけれど、日本酒のように特定の酒を示すような使い方は無いだろう。不思議な名称を与えられた酒だと思う。

現在の日本酒を正確に表すならば、清酒となる。が、これも透明のものだけを指している。澄酒とか黒酒とか呼ばれたものである。日本酒の中には白酒も含まれるだろうから、ますますややこしい。

酒というものが、どういうわけか文化的に重要なポジションにある。酒を楽しむために発生した食べものが存在するし、神様に捧げる神饌(シンセン)は昔から「米」「酒」「餅」が上位にきている。米から作られたものだからなのだろうか。どうもそれだけが理由じゃなさそうだ。

言葉に注目すると、サケ、ササ、ミキ、サキなどいろいろな古語がある。ケとキは語形変化であるので、同等の言語らしい。サは清らかなるものという意味らしいのだが、ケやキは何なのだろう。大和言葉には、男性言葉(野郎言葉)と女性言葉(女房言葉)があった。ヨーロッパの一部言語では今でも存在するが、同じように日本語にもあったのだ。そのなかで、キは男性言葉のなかで使われていた言葉だ。男性そのものを表す言葉として、用いられていたと主張する文献もあった。古事記にも登場するイザナキは男性神である。このキに通ずるのではないかと。

古事記と言えば、古代の神様たちのことを記した部分(神代記)にも、酒にまつわる話がいくつも登場する。有名なところでは、コノハナサクヤヒメとスサノオノミコトの二柱だ。
コノハナサクヤヒメは、高天原から地上に降臨した天津神であるニニギノミコトの奥さんになる神様だ。(ニニギノミコトはアマテラスの孫。アマテラスの孫が地上に降臨したから、天孫降臨と言う)。コノハナサクヤヒメが醸した酒が天舐酒(アマノタムサケ)である。日本で一番最初に酒を醸したことになっている。
スサノオノミコトは、アマテラスの弟で暴れん坊の神様だ。ヤマタノオロチを退治する事になったのだけれど、あんまりに強いので酒で酔わせることにした。八塩折酒(ヤシオリノサケ)である。ちなみに、映画ゴジラの中でもヤシオリ作戦が登場するのは、この故事に由来しているらしい。

随分と古い時代から日本酒を嗜んでいたようだ。

酒のおかげで発生した料理といえば、肴がある。肴という言葉は「酒の菜」だ。菜は昔から副菜を現していて、飯菜や惣菜といった表現は飯を主食としたときの副菜という意味である。つまり、肴は酒の副菜という意味である。
よく「酒の肴」という表現を聞くのだけれど、言葉の意味においては二重表現ということになる。

さかなといえば、魚もサカナと読む。実は、だいぶ時代があとになってから魚をサカナと読むようになったものである。魚類の正式な呼び名は「ウオ」または「イオ」である。中世でもウオと呼称していたのだけれど、肴といえばウオ、魚といえば肴というくらいに定着してくる頃になって、いつのまにか混同されるようになったのだ。

日常生活と酒とのつながりは深く、事例を上げればきりがない。言葉一つとっても上記のとおりだ。それ以外にも、祭礼といえば酒がつきものだし、婚礼も節句も葬式も酒がなければ始まらないというのが日本の儀礼である。
これほどまでに酒と結びついたのはどういう事情があったのか。

水が悪かったために酒が最も安全な飲み物だった。というのは、ビールやワインを常飲する中東からヨーロッパの社会においての話である。ヨーロッパなんかは生水を飲むとお腹をくだしてしまう。そのくらい高度が高くて飲めたものじゃない。
古代日本の水が現代と同等だったかというとわからないが、少なくとも井戸水を直接飲むことは出来たのである。それに、かなり早期から温かい飲み物を飲む習慣も定着していて、煮沸消毒することも当たり前になっている。お茶だってある。
にもかかわらず、酒が日常生活に密着している。ヨーロッパの国々とは違う繋がり方をしていると見るのが自然じゃないだろうか。

共通点としては、共食を行い互いの仲間意識を醸成しているところだ。古いところだとメソポタミア文明におけるビールがそれに当たる。向き合った二人が一つの瓶にストローを差し込んでビールを飲んでいる。そんな壁画が残されている。ストローはゴミや酵母が口に入らないように工夫されたものである。ビールの発行方式では、役目を終えた酵母はカスとなって上面に浮かぶ。だから、濾す技術がなかった時代にはストローを差し込んで、カメの中間部のビールを飲んだのだ。

この壁画が描かれた時代は紀元前3000~2000年。
既に陶器が使われており、布を使った濾過技術も成立している。陶器のカップも使われていた。ビールを商品としたビジネスすら誕生していた。つまり、ストローを使用する必要性はどこにもないのだ。
この壁画に描かれている二人は、仲間意識や結束力を向上させるための儀礼的な飲酒方法なのである。

この点においては、古代日本でも同様の行動が見られる。古代に限らず、現代にまで通じる概念だ。同じ釜の飯を食う。同じ樽の酒を飲む。会食では、皆が同じものを食べる。同じ空間で同じ時を過ごし、同じように酒に酔うというのは、仲間としての連帯感を醸成する上で効果的であると認識してきたのだ。

共食の始まりは、神様と人間の間で行われた。神殿に神酒と神饌を捧げ、祈る。そして、その場に集った人たちで神様から食べ物や飲み物を分けていただく。そうすることで、神様の力をおすそ分けしていただこうという話である。これは直会(ナオライ)と呼ばれる儀式であり、どんちゃん騒ぎをするような雰囲気ではない。上座から順に盃が回される、回し飲みである。これまた共食を象徴するような行為でもある。
その後に、神様の前で人間同士が酒盛りを始めるのだ。
ちなみに、「酒盛り」の語源の話だ。「モリ」はモルの変形である。モルは神様や貴人から食べ物や飲み物を分けてもらう行為を指している。分かち合うのだ。酒盛りという言葉からして分かち合うことを含意していると言える。

同じように、ワインは旧約聖書の中でも重要な酒として描かれている。キリスト教の価値観の中でも、パンは体、ワインは血だとして信仰の対象となっている点では日本文化とそうかけ離れた話ではない。

乱暴にまとめてしまうと。神と人との間であれ、人間同士であれ、一体感の醸成においては酒は効果があるということだ。
今でも、あちこちで見かける○○会の懇親会には酒がつきものである。大した意味もないことを語り合っているが、当人たちにとっては意味ありそうな内容なのである。あとになって思えば、どうということはない。なんの役にも立たないような会話。飲みすぎれば大抵のことは忘れてしまう。
けれども、酒の席そのものが大切なのであって、語る内容など何だって良いのかもしれない。

大きな相違点は、常飲するかどうかだ。
ビールもワインも、水の代わりである。衛生上の問題から水を飲めなくて、温かい飲み物を飲む文化もない。コーヒーも紅茶もなかった時代。朝からビールやワインを飲んでいたのである。もうアルコールだという認識すらなかったかもしれない。
どんな会議も基本的にほろ酔い加減。もしかしたら、そんな状態だったからこそちょっとしたことで戦争に発展してしまっていたのではないだろうかと勘ぐってしまう。それとも、めちゃくちゃ酒に強かったのだろうか。

日本では、長い間過程で酒を飲むという習慣がない。基本的に外。それも、儀礼で集団飲酒なのだ。コミュニケーションツールとしての酒であるから、一人で飲んだってしょうがない。そんな感覚だったのかもしれない。
興味深いのは、酔いつぶれるのが礼儀とされていたという話である。軽く酩酊するくらいまで飲む。酒は飲んでも飲まれるな。ではなく、飲まれろ、と。酒に弱い人は酔っ払ったフリまでしたそうだ。
どういうことだろう。
人が酔っ払うと、どこまでが自分でどこからが他の誰かなのかが曖昧になる。そういう感覚を覚えるらしい。らしい、としたり顔で言ったが、わかる気もするのだ。自分と他人の境界線が曖昧になるような感覚。これこそが、神事における「一体感の醸成」の根幹なのだ。と思う。

神話の世界でも、アマテラスが天岩戸に隠れたときには大宴会を開いている。大宴会では乱れに乱れ、酒を飲み騒ぎ、アメノウズメも踊り狂った。ということになっている。そういうパーティー気質が、アイデンティティのどこかに埋もれている。
それが、酒宴のときにだけ発揮される。ということなのかもしれない。
日常はあくまでもケであり、ハレの行為はハレのときだけのものである。この差別化。つまりケとハレの概念が日本独自の酒文化を紡ぎ出したのではないだろうか。

鎌倉時代から室町時代に掛けて成立していった楽。大和楽、猿楽、田楽、能楽などは、酒宴において神様とともに肴として扱われていたものだ。肴は何も食べるものばかりではない。この感覚は今でも同じである。「結婚ののろけ話を肴に飲みに行こう」なんてこともあるくらいだ。歌や舞は、神様に奉納するというのだが、なんとも滑稽な踊りが多いものだ。農耕儀礼で神様にいろいろと願い事をするのだから、代わりにおもてなしをしようという心遣いから生まれた。お神酒を飲んでもらい、神饌を召し上がってもらい、滑稽な舞をみて楽しんでもらおう。そういうことだ。
酒の席で歌や踊りが楽しまれるのは、アメノウズメにも起源を感じ取ることが出来る。

日本に朝廷が出来て、中央権力が生まれた頃。飛鳥時代の頃だ。群飲禁止令が出される。酒宴を開くなと。飲みすぎなのである。645年に乙巳の変が起きる。中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我入鹿を討ったという、政治クーデターである。その9ヶ月後には薄葬の詔が出される。薄葬の詔は主に、巨大古墳をやめようという趣旨である。大化の改新によって中央集権が強化されるから、権力誇示のための労役はやめようと。その分の労働力を農作業に充てて、国を豊かにするのが目的だ。その中の第4条に「農作の月には田造りに努め、美作(イヲ*魚の意)と酒の禁」とある。つまり、農民は農業に励み、人々が少しでも食べものが不足することのない世の中にするという意志の現れだ。

それにしても、普段からそんなに酒を飲む機会が農民にあったのだろうか。神事と言ってもそう沢山はなさそうな印象である。
ところが、始めは神棚の前で行われていた神事が拡大解釈されていき、農耕儀礼や冠婚葬祭にまで集団飲酒の習慣が広まっていったのである。現代の感覚で捉えるような暴飲暴食ではない。そんなことが出来るほど裕福な時代でもない。過去の慣例通りに、儀礼のときだけの飲酒であることは変わらない。ただ、儀礼そのものの回数が増えたのだ。

春には山へ登り、山の神様に祈りを捧げ、水田の畦や広場で山神様が水田にお越しくださったと喜びを現し、小正月には豊作祈願のまつりがあり、田植え神事が行われる。
夏には、水害や伝染病などをもたらすタタリ神を避けるためのまつり、夏起こしの祓いが行われ、納涼祭となる。
秋になれば、豊穣を祝って神様に感謝するまつりが行われ、山神様を社にお送りして祈りを捧げる。
冬は冬で、稲の御霊に敬意を払って御霊祭などが行われる。
農耕神事だけでも、そこそこに数がある。
これに、神社の祭礼や冠婚葬祭などの儀礼が加わるのである。月に1度や2度の飲み会が催されていたのだろう。しかも酔っ払うまで。

646年の禁酒令以降も、何度も禁酒令が発令されている。農耕儀礼や神事がセットになっているから、なかなか言うことを聞かない。朝廷よりも神様の方が上位の概念だ。だから、朝廷も無理強いできない。「親しい友人や親戚などが集まって酒宴を開く場合は届け出れば許可する。」という優しさもセットでの発令だった。

集団飲酒でしか飲まないよと言いながら、集団で集まる機会が増えるという謎の現象が起こるのだ。これは、その後もずっと続く。江戸時代になっても、やれ寄り合いだとか町内会だとか、長屋の誰それの祝言だとか、何かと口実を作っては集団飲酒をしている。

これが何を意味しているのか。食事の際に酒を飲むのではなく、酒の席でつまみを食べるという文化に育っていく。ワインは食中にたしなみ、食後になって飲み会になるのが流れだ。食事を終えたから本格的に飲みましょうと。ところが、酒を飲むため肴があれば良いというところから料理が始まっているというのだから、これは日本独自の文化と言えるかもしれない。つまり、ベースはパーティーである。日本人はとかくパーティーに慣れていないような言い回しをされることがあるけれど、本質は真逆だと言える

参考までに、郷村で広がっていた集団飲酒の習慣を紹介しておこう。
村に新しい人が引っ越してくることが少なかった時代ではあるが、入居者があった時は酒盛りだ。有力者や隣近所へのあいさつ回りには酒を持っていく。引越し蕎麦ではない。酒。逆に村の者が転出するときなどは、村の長が手配して送別会を開催する。長年のお礼や、旅立つものへの励まし、寂しさを紛らわす涙酒でもある。この風習は今ではあまり見られないようだけれど、しっかりと社会に根づいている。まさに、会社という村を出入りする時に行われる歓送迎会そのものである。

日常の労働のあとのねぎらいもあった。基本的に労働は交換が可能である。田植えに稲刈り、かやの葺き替えなど多くの労働力を必要とする作業がある。その時はお互いに無償で助け合うものだ。労働の等価交換となる。とはいえ、手伝ってもらったのなら礼をするのが習いというものだ。仕事が終われば酒を伴った慰労会となる。これはこれで、仲間意識の醸成につながりお互いに助け合う心をつなぐ役割を持っていた。

若者酒という風習も見られる。家父長制度が強かった時代のことだ。家長である父親の権力が絶大であるから、その子どもたちは圧迫感を覚えていた。その憂さ晴らしであったり、同世代での一体感や情報交換、時には嫁探しも兼ねていたという。同世代での仲間意識や憂さ晴らし、情報交換。このキーワードは今でも通用する。各業種の青年部会のようなところでは、交流、研鑽、情報交換といったお酒付きの親睦会が行われるのと同じである。

新年のあいさつは、基本的に小作人や大工などが親方へ酒を持っていく。そうすると、親方の方ではおせち料理と酒を用意していて「よく来た、今年も頼まぁ」と言った具合に酒盛りが始まるのだ。一体感の醸成とともに、日常の関係を再確認するという役割もあった。贈り物をする側と、もてなす側。主従とまではいかないけれど、つながりの形を体感するための儀式でもあったのである。

婚礼関係は、今でも色濃く風習が残っている。わかりやすいのは夫婦盃である。神前式では、朱塗りの盃で三三九度を取り交わすものだ。同じ盃を飲み回すのは、契りの儀式そのものである。今は結婚式でしか見られなくなってきたのだけれど、結納でも契の酒として親子酒がある。女性が嫁ぎ先の親たちと盃を交わすのである。交わすというのは、回し飲みの別の表現である。今日より、真の娘として扱うし、真の親として接するという儀式だ。

他にも祝い事では、子供の誕生から各成長段階の祝、節句がある。還暦や喜寿などの祝もだ。
祝い事ばかりがハレではない。葬儀もまたハレの場である。厳密な解説はしないけれど、ハレとはケではないことを言う。陰陽のどちらに振れても、ハレだと捉えておけば間違いない。
穢を祓う。浄め。これには、塩と酒が必要だ。穢とは、常世国の臭気を指しているのであって、故人が汚れているとかそういった類の話ではない。葬儀が終われば、斎(トキ)が行われる。今でも続く通りに、法事の後の食事会である。現在では食事会となっているが、本来は酒宴である。酒をもって浄め、悲しみを紛らわし、故人への思いを語り合い、共有する。そういう場なのである。だから、お酌など無用。銘々に手酌で酒をやりながら、感情を共有するのだ。

こうしてみていくと、酒は人と人とを繋ぐ効果をもたらしていることがよく分かる。
人間の脳の表層は、理性を生み出す働きをしている。初対面の人に緊張感や警戒心を抱くのは、理性の働きによるものだ。酒はこの部分を麻痺させる。そのおかげで、警戒心が解けて開放的になり、結果として打ち解けやすくなるのである。
動物には集団の最大値がある。一定の数を超えると集団でいられなくなり分裂するのだ。人類だけが大集団を形成できるという。ホモ・サピエンスが持つ空想のちから、そして酒の力があったと言えるのだろう。

人と人との繋がりを強めるという意味では、お酌の文化も特徴的だ。なかには敬遠する人もいるだろうし、海外でのお酌は日本のそれとはまた違った意味を持っている。
日本においては、「酌しつ酌されつ」や「ご返盃」「お流れ頂戴」といった言葉があるように、互いにお酌をし合う文化が定着している。これも、元々は目上の人におべっかを使うというような意味でもなく、ましてや女性が酌をして回るようなものでもない。交流のスタイルなのだ。欧米の人たちが親密さを確かめ合うためにハグやキスをするのと同じ。言語ではなく行動で交流をする方法のひとつなのだ。

様々に事例を上げてきたが、やはりどこかしらに日本人が日本人らしいと感じるポイントがあったのではないだろうか。
神や仏など超自然との繋がりをもたらすもの。
共食、酒酔で仲間意識や一体感を醸成すること。
肴のために進化したジャンルの料理が存在する。
神との共食のために芸能が誕生した。
飲む時はみんなでド派手にパーティー。でも普段はあまり飲まない。

こういった文化の背景には、やはり米の存在が大きい。米は日本人にとって重要であったことは周知の事実だろう。けれども、現代人の感覚で捉えるよりもずっと米は神聖なものだったのである。
日本人の大半が十分に米を食べられるようになったのは、実は最近のことである。戦後高度成長期と呼ばれる時代になってからのことだ。例えば日本全体の江戸時代の米の生産量と、当時の人口とで比較する。一日一人あたり1合ずつだとしても200日程度の受給率にしかならない。だからこそ、農村部では米をあまり精米せずに食べた。少しでもかさを大きくしたいからだ。そして、糅飯が中心の生活を送ることになる。

糅飯とは米と同量程度のヒエやアワ、麦、芋、そばなどを混ぜ込んで炊いたものである。日常の食事は、これに漬物などを添えるのだ。あまり手のかかったものは食べられておらず、ほぼ毎日同じようなものを食する生活である。

だからこそ、米だけで出来たものは貴重でありごちそうなのだ。更に手のかかった食事は、まさにハレにふさわしいものということになる。神饌の主役が、強飯、餅、酒であることは日本人にとって必然。米だけで作られていて、なおかつ蒸したり、搗いたり、醸したりと手のかかったもの。まさに御馳走そのものだ。

こうした状況を俯瞰してみると、なんとなく日本人がどんな民族であるのかが透けて見えるようである。そして、日本酒がどれほど神聖なものだったのかがわかったような気になるのではないだろうか。

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