S3-1 人類を魅了するお茶物語

お茶の日本伝来

お茶が日本に伝来した時代は、実は明確になっていない。史漢(漢王朝の記録)によれば漢時代(紀元前)には日本に輸出したということになっている。その後、遣隋使で奈良時代に茶が伝来しているし、遣唐使で本格的に伝来するのが平安時代かな。このあたりで、貴族や僧侶の間では喫茶の習慣が始まる。
日本でのお茶の歴史の話になると、必ず登場するのが空海(774~835)と最澄(767~822)。空海は高野山を開いた人だよね。最澄は比叡山延暦寺の開祖。二人とも遣唐使船に乗って中国大陸に行ったからその時にお茶文化にふれることになったんだろうね。

一回整理するね。
中国では紀元前3000年くらいからお茶の利用が始まっていた。数千年の間は「薬」または「食用」として存在していた。6世紀~8世紀にかけて食用から飲み物へ進化して定着していった。飲み物になって定着した頃に「茶経」が出版されたのが760年頃。ある意味最初のお茶ブームが来ている時代に、最澄と空海が中国を訪れた。(804年)ということで、ここで日本に茶文化が到来することになる。正確にはこの2人がお茶を日本にもたらしたのかどうかもはっきりしないんだけどね。遣唐使それまでに何度か派遣されているから、少し前には日本にやってきていたのかも知れない。

まだ輸入に頼っていたから、遣唐使(630-828)が行き来している間は良いんだけど、遣唐使をやめてしまうとお茶が入ってこなくなるんだよね。だから、しばらくは日本での茶文化は定着しないままでいる。

再び日本にお茶の文化をもたらすのは鎌倉時代だ。栄西(1141-1215)というこれまたお坊さんが中国留学をして、もう一回お茶のタネと抹茶法を持ち帰ってくる。これが1191年。遣唐使を派遣しなくなってから350年経ってるんだけど。ここからが本格的な「日本のお茶」の始まりだ。ということで、お茶の世界でも「栄西禅師」は有名人かつ重要人物なんだよね。
中国で発展していた「抹茶法」というお茶の文化を取り入れることで、日本で廃れていた喫茶の習慣を復活定着させた人。だから、これ以降はしばらくは「お茶=抹茶」だ。現代人が想像する抹茶は「薄茶」だけど、本来の抹茶と言えば「濃茶」。薄茶よりももうちょっとドロっとしているやつね。
そして、お茶のタネと茶栽培法を持ち帰って、日本で初めて茶園を大々的に作った人でもある。

日本最古の茶園と言われているのが長崎県平戸の富春園(ふうしゅんえん)でこれを開くと、次いで福岡県と佐賀県の県境にある脊振山(せぶりやま)に茶園を開く。1202年には京都に建仁寺を開いて移り住んだあと、同じ京都にある高山寺(こうさんじ)の明恵(みょうえ)上人に茶のタネを譲る。ここで開かれた茶園が栂尾茶(とがのおちゃ)で、長い間これを本茶、それ以外を非茶といっていた。といっても全部京都近辺のお茶なんだけど。闘茶っていう遊びがあって、いろんなお茶の中から本茶を当てるのが鎌倉武士の間で流行した。明恵が更に茶を広めた先が宇治。今でも有名だよね。これが室町時代に栄えたことで栂尾茶は衰退していく。なぜ栂尾茶よりも宇治茶の方が隆盛を誇ったのかは、また後で書くことにするね。煩雑になるから。

1202年。栄西が京都に建仁寺を開いた年に、後に聖一国師(1202-1280)とよばれた僧侶が静岡県で生まれる。この人が、静岡茶の始祖だ。本名は円爾(えんに)といって、彼の死後になって天皇から「聖一」という「国師」がおくられる。ちなみに国師というのは、亡くなった人につけられる名前、諡号(しごう)の中でも最高位。国のお師匠、つまり天皇にとっての先生という意味合い。その第一号がこの聖一国師ね。
あちこちの有名なお寺で勉強をして、1235から1241年まで中国(宋)へ留学して、京都では有名な東福寺を開いた人だ。そもそもお坊さんとしてとても立派な人ね。その聖一国師が晩年(1270-)になって、生まれ故郷に帰ってきて医王山回春院(いおうざんかいしゅんいん)というお寺を開く。そこで、禅宗の教えを広めるんだけど、この時にお茶のタネを植えさせて茶園を開いたのが「静岡茶」細かく言うと「本山茶」の始まりだ。これが、後々静岡県をお茶の一大産地に育てることにつながっていくんだよね。

かなり大雑把な流れで説明してきたけれど、日本におけるお茶の伝達の流れは掴めたかな。この中で、実はとても興味深いことがあるんだよね。お茶を伝えていく役割を果たすのは、必ず「僧侶」だってこと。別に僧侶でなくてもいいじゃない。貴族でも商人でも構わないはずなんだ。
なんなら、遣唐船に乗っていたのは最澄や空海ばかりじゃないし、どちらかというと最澄も空海もオマケで乗せてもらったくらいの扱いだ。栄西が中国に渡ったのは「日宋貿易」を行う船に乗せてもらったわけで、商売に熱心だった平清盛の庇護を受けていたのだから、現代的な感覚であれば「お茶という商品を日本に持ち込むのは商人」ということになるはずなんだよね。だけど、違った。
中国から日本へ伝え、お茶の文化や栽培を日本中に広めていったのは「僧侶」だったというのがなぜか。それが興味深いなと思ってさ。

この時代の僧侶は、現代人の我々が認識する人たちとはちょっと違う。現代だと、宗教者としての側面だけだよね。だけど、この頃は「一級の知識人」という感じかな。当時は宗教という概念すらないからね。どちらかというと、思想。どう生きるか、どう社会を良くしていくかを説く思想。そして、そのために必要な知識を学んで来たというのが中国留学を終えた僧侶ってことになるかな。
彼らの知識がどういう扱いだったのかを現代的に表現するとどうなるんだろう。人文学、社会学、国の統治システム、国防、医療、本草学、建築学、工学、外国語、天文学。こういったものを総合的に習得しているのが僧侶なんだよね。もちろん厳密には現代のものとは違うけれど、当時の認識としてはこんな感じってことね。
だから、朝廷が国家公務員として留学させているわけだ。

特に注目したいのは、医療、本草学のところ。簡単に言っちゃうと当時の僧侶はお医者さんという側面を持っていた。衆生を救いたいと願って仏教に帰依しているんだから、民を救うために繋がる医学はとても親和性が高いよね。
思い出してもらいたいんだけど、超古代から古代までずーっと長い間お茶は薬として扱われてきたよね。そうなんだ。医者が薬草を広めたと思ったらどう?とても理にかなった行動だよね。僧侶がお茶を広めるということは、現代の感覚では医者が薬草を広めるということに近いかも知れない。
実際、日本茶の祖と呼ばれる栄西は「喫茶養生記」という書物を記しているんだよね。お茶の種類と抹茶の製法、それから多くの部分を「身体を健康にするためのお茶の効能」に費やされている。お茶を飲んだら健康で元気でいられるよってことを言ってるんだ。ちなみに下巻もあって、糖尿病、中風、不食、瘡、脚気に対する桑の効用が書かれている。こっちはお茶のことではないけれど、それだけ「健康と病」について熱心に伝えていたということになるね。

僧侶がお茶を広めたことについては、もう一つの説がある。
眠気覚ましとしての活用だ。ただ、眠気覚ましに使うだけなら、寺内に植えるだけで足りるんじゃないかな。別にわざわざ茶園を開くまでもないと言う気がするじゃない。だけど、実際に重要だったらしいのよ。
栄西が持ち帰った仏教は「禅宗」だ。とにかく瞑想が超重要。修行僧にとっては、眠気と心身の疲労との戦いだった。睡魔を退け、疲労を回復し、精神を爽快にする効用があると考えられていた。というのは喫茶養生記に記されているとおりだ。
実際、栄西にとって一番大事だったのは「禅宗」の教えを広めることなんだよね。そのためには瞑想の修行が不可欠で、その修業のためにはお茶が不可欠だと考えていたんじゃないかと思う。だから、今までは輸入だけで良かったものを、わざわざ「お茶のタネ」と「抹茶法」と「栽培方法」を持ち帰ったんだよ。喫茶法という作法までセットでね。そして、行く先々のお寺でお茶を植えて喫茶法を広める。お茶が広まればセットで禅宗が広がると考えていた節もあるよね。
ちなみに、お寺と眠気とのエピソードでは他にもあるんだ。お寺にはいくつかの「魚」にちなんだ物があるよね。木魚もそうだし、魚の形に掘られた木製の鳴子のようなもの。これは、魚が目を閉じないところに由来するらしい。ひとつには真理に目を開くという意味、そしてもう一つには眠らないという意味が込められているのだとか。

話を戻すと、お茶を伝えて広めたのは僧侶だった。と言う話だね。そしてなぜその役割が僧侶だったのかは、当時の僧侶は医者としての側面があって、お茶は薬として扱われていたという面をもっていたらからだった。これで、お茶が日本国内でどんなふうに広まっていったのかが見えてくるんじゃないかな。
ということで、ここからが本題。日本で有名な茶産地は「なぜ茶処として有名になっていったのか」について掘り下げていくことにします。

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