これら以外にも、今までになかった革新的な技術発展が起きた。ビール醸造に大きな影響を与えたものをいくつか紹介しよう。 まず、パスツールの低温殺菌法。フランスの細菌学者だね。細菌は基本的に「タンパク質」だ。これは、加熱すると凝固する。卵が固まるのと同じ原理だね。この凝固は、例えば60℃くらいでも少し長くキープすればタンパク質が凝固する。50℃まで下げると、保温時間が伸びる。逆に80℃に上げると時間が短くなる。これを細かく実験して明らかにしたのだ。低温殺菌法の登場によって、ビールの酸敗リスクは大きく低減した。 その他、冷凍機やろ過機、炭酸ガス注入法もこの時代に誕生している。 保存容器も変化した。木樽で醸造して、パブや遠方へは木樽のまま運んだし、個人はそこから皮袋や水差しみたいな容器に分けて購入していた。これが当時の一般的なスタイルだ。これが、瓶ビールに置き換わっていく。ガラス瓶自体は、紀元前から存在はしていたのだけどね。機械工業となることで瓶の大量加工が可能になったのだ。そして、偉大なる発明はコルクの存在。瓶があっても蓋がなければならないし、中途半端な蓋だと少しの揺れで弾け飛んでしまう。中身が炭酸だからね。そこで用いられたのがコルクで蓋をしてそれを紐やワイヤーで固定するスタイル。これによって、更に劣化のリスクが低減されることになったのだ。 木樽はこのあと、消滅に向かっていく。販売容器がガラス瓶になっただけではなく、醸造樽もケッグという金属製の樽に置き換わっていったのだ。かつて、伝統的なエールは、木樽に住み着いてる酵母に頼っていたこともあった。けれども、上面発酵で浮かんできた酵母を採取しておいて、次の醸造の際に酵母を投入することが出来るようになっていく。これを可能にしたのは、冷凍技術のおかげである。常温ではエール酵母が死滅してしまう。冷凍技術の開発によって、酵母のみを保存することが出来るようになった。これらの技術が合わさることで、木樽での醸造はやがて姿を消すことになったんだ。 技術発展の他にも、ビール産業が大きく拡大する要因があった。人口増加。 産業革命が始まる少し前から農業の進化によって、徐々に人口が増加していった時代でもある。職人技を修めるために職業ギルドでの修練を必要とした時代と違って、機械工業では機械の操作を習熟すればよい。紡績や鉄産業などの工業は、こうして増加した労働力の受け皿ともなっていった。 ビール産業においても、マイスターではない労働者が働ける工場が生まれた。それまでは、今で言うクラフトビールメーカー程度の規模だったのが、大規模工場に置き換わっていくのだ。 また、人口増加はマーケットを生み出した。 多くの工場労働者は、安価で大量に生産されるロンドンポーターを大量に消費した。仕事終わりにパブでロンドンポーターを飲むのが、ロンドンっ子の粋なスタイルになっていったのだ。 大規模工場では、現代では考えられないくらいの長時間労働が普通だった。16時間程度は働いただろうか。この過酷な労働を支えたのもまたエールだったのだ。従業員の疲労が溜まってくると、みなが一様にエールを飲む。そうすると、力がみなぎってきて眠気が覚めるというのだ。現代に照らし合わせるととんでもない状況に思えるかもしれないけど、この当時はこれで良かった。 ちなみに、仕事中にエールばかり飲んでいては酔っ払ってしまう。けれども、残業してでも働かないといけない。というか働かせたい。そこで、活力源としてのエールから眠気覚ましの飲み物への置き換えがされた。そうして従業員たちの飲み物は紅茶になる。貴族の飲み物だった紅茶が庶民に拡大していく要因にもなっていくことになる。というところでお茶のストーリーと一瞬クロスするね。 こういった産業革命のあとお押しを受けて、ポーター醸造家は大企業へと変貌を遂げていく。そして大量生産大量消費の状況を生み出していく。そういった背景の中、彼らは画期的な販売方法を確立させる。 小売販売を行っているパブと専属契約を結ぶ。うちのエールだけを売ってね。この販売手法が大当たりして、ロンドンポーターは売れまくり、近代的なビールの巨大企業が誕生していく。そしてついには、エール市場の95%は大手企業が醸造したものになっていく。ポーターがもたらしたものは、「大手企業」「効率化の追求」「販売手法の開拓」だ。 ロンドンポーターがよく売れたので、他の地域でも醸造しようとするのだけれど、これがなかなかうまく行かない。それは、水が違うからだ。色の濃いポーターと、ロンドンの重炭酸塩が多い硬水の相性が良かったんだね。そんななかで、ロンドンポーターに果敢に戦いを挑む企業が現れる。1759年にアイルランドのダブリンで創業した「ギネス」だ。 ロンドンポーターは、アイルランドへの輸出については税金の還付があったりして、かなり優遇されていた。けれども、アイルランドからイングランドへの輸入についてはかなり高い税金がかけられていた。ギネスのポーターはロンドンでは高くて伸び悩むし、ロンドンポーターは絶好調でアイルランドへの輸出は拡大する一方。政治的にもイギリスからいろんな圧力をかけられていたアイルランドとしてはたまらない。 ギネスのロンドンポーターへの挑戦は2つの大きな功績を残した。 ひとつは、税制の公正化。このまま高い税金を課し続けるなら、工場を他の地域(ウェールズ)に移すと下院議会に訴えたのだ。ウェールズなら、輸出入の税金がかからない。 ちょっと補足。日本人の感覚でいうイギリスは、4つの王国から成り立っていた。イングランド、スコットランド、ウェールズ。聞いたことがある人も多いだろう。イングランドはウェールズと統合してイングランド王国になって、その後にスコットランド王国とも統合してグレートブリテン王国になる。ギネスがロンドンポーターと競っていたのはこのときだ。アイルランド王国はグレートブリテン王国の支配下にある状態だったわけだ。 グレートブリテン王国の内側に工場を作ってしまえば関税がなくなる。そうなると、政府としては税収が減ることになるので困る。ということで、どちらの輸出入も構成な関税が課せられるようになる。 もうひとつは、商品開発だ。 ギネスはロンドンポーターを徹底的に研究する。ちょうどその頃 独自の商品を開発する。あの黒ビールの王様とも称される「スタウトビール」だ。ちなみに「スタウト」というのは「強い」という意味ね。 ポーターではこんがりと焦がした麦芽を使って醸造するという手法だった。これが独特の香りとコクを生み出していたのだけれど、弱点があったのだ。麦芽を乾燥させる時にこんがりと加熱すると、アミラーゼの活動が弱まって糖化が少なくなるのだ。コクはあるけれど、アルコール醸造に必要な二糖類が少ないから、効率が悪かったのだ。これを改良して生まれたのがギネスのスタウトビールだ。 ペールエールと同じように醸造をする。その過程で、ポーターより思いっきり焦がした麦芽を加えるのだ。こうすると、ペールエールのあっさりしたキレのある味わいをベースに、ポーターよりもっとポーターらしい深い味わいを作り出すことが出来るのだ。 1800年代にはいって、ギネスのスタウトビールが販売量を伸ばしていき、ついにはロンドン市場への輸出が加速していくことになる。ロンドンで飲まれるビールは、ペールエールとスタウトが中心になるのだ。英国がビール業界最強の座についていたのがこの頃だ。ヨーロッパ世界でも最先端の技術をもち、その恩恵をうけて最高峰の品質を保っていた。 だが、このあとビール市場の覇権はラガー、それもチェコ生まれのピルスナービールに取って代わられる。くしくもイギリスから始まった産業革命の影響によるものだったのだ。 S7-11 19世紀「世界のビール市場勢力」 1842年、ピルスナービールは、チェコのピルゼン市で生まれた。ラガー酵母を使っったラガービールだ。 ピルスナービールは、このあとビール業界の勢力図を大きく塗り替えることになる。 この時点での、世界のビール市場の勢力がどのようなバランスだったのかを整理しておく。 最大勢力はペールエール。瓶詰めビールとしてヨーロッパ大陸はもちろん、アメリカ大陸やインドなどのアジア方面へも広く展開していた。ペール・エールの勢力の中でもバートンのバス社は飛び抜けており、世界最大にして最新鋭の設備と技術をもつ醸造工場は、圧倒的だった。 これに対抗するのは、黒ビールの王者ギネスのスタウトだ。黒のエールと言えばギネス。ギネスが黒ビールの代名詞となるほどの活況である。バス社同様に、瓶詰めビールとして世界の各地へ出荷され、世界の2大巨頭となっていた。 バイエルン公国のミュンヘンは、ラガービールの発祥地だ。スッキリした飲み口で華々しくデビューしたミュンヘンラガーは、神聖ローマ帝国内での勢力図を大きく塗り替えた。それまでは、アインベックなどの北部が銘醸地だったのだけれど、南部のミュンヘンラガーが帝国を代表するほどにまで成長していたのだ。ミュンヘンラガーは、帝国周辺の地域に影響を与え、ミュンヘン以外の地でもラガーを醸造するようになっていく。 とは言え、この時点では英国のエール大企業と比べると、新興勢力はもちろんミュンヘンラガーですら「片田舎のビール」である。ピルゼンの醸造家など、巨大なビール市場の中では取るに足らない存在だったのだ。 ミュンヘンからラガービールの醸造方法を学び、独自のラガーを醸造し始めたの新興勢力たち。オーストリアはウィーンのシュヴァチェット醸造所、デンマークのカールスバーグ醸造所。そして、チェコのピルゼン市の醸造家たちだ。そして、ミュンヘンを含めたラガービール醸造家たちは、イギリスの近代的な醸造工場を目指して日々開発を続けていく。 「ラガービールこそがこれからのビールの中心になっていく」。そう確信する二人の醸造家がいた。 ミュンヘンのガブリエル・ゼードルマイル2世(シュパーテン醸造所)とウィーンのアントン・ドレアー(シュヴァチェット醸造所)は友人同士だった。1840年。二人は完全ではないもののラガー酵母の分離に成功する。それまで木樽や醸造所に自然に住み着いていた酵母を頼りにビールを醸造していたのだが、酵母を分離することによって他の醸造所でも利用することが出来るようになるのだ。前述したけれど、金属製の樽(ケッグ)での醸造も可能になる。 ミュンヘンを中心にバイエルン公国やウィーンで、麦芽の精製方法が進化するのもこの頃だ。製造方法の詳細は後述することにして、ここでの技術的な進化は麦芽の焙燥のことを指す。焙燥というのは、焙煎と乾燥の中間の作業みたいな感じ。それまでは高温で焙燥するのが普通だった。まぁ、焙燥温度を調整するのは難しかっただろうしね。 ウィーンではドレアーが低温焙燥を確立させて、後にウィンナーモルトと呼ばれるようになる。薄っすらと焦がした赤みがかったウィンナーラガーの誕生である。甘みがあって、色が赤銅色(しゃくどういろ)で、ほのかにトーストのような匂いがする。 ゼードルマイルいミュンヘンでも、焙燥技術を中心にラガーの改良が進められていく。それまでのダークカラーの「デュンケル」、ドレアーの技術を取り入れた赤銅色の「ミュンヘナー」がバリエーションとして追加される。オクトーバーフェストのところでも紹介したメルツェンビール。3月に仕込んで夏まで持たせるというラガーだね。これもミュンヘナーをベースに醸造されたものだと言われている。ドレアーが友人のゼードルマイルに紹介したことからミュンヘンでも焙燥の浅いモルトが使われるようになったのだ。 もう少しあとになるけれど、焙燥の技術の進化によって「ヘレス」という更に焙燥の浅いラガーも誕生することになる。ゼードルマイルとドレアーによる技術交換が作り出した文化だ。 チェコのピルゼン市でもビール醸造の動きが活発になっていく。もともと、古くからビール醸造が行われていた土地柄である。というのも、チェコもフランク王国や神聖ローマ帝国の統治下であったし、当然修道院でビールを醸造していたのだ。チェコ初のビール醸造所は993年に建てられたプラハのブジェブノフ修道院である。 1840年。ゼードルマイルとドレアーが酵母の分離に成功した頃。ピルゼン市の醸造家たちは、ミュンヘン式のラガービールを作ろうと一致団結する。詳細な理由は不明だけれど、大きく2つの理由が考えられている。マーケットがラガービールに向かっていてイギリスよりも近いミュンヘン式のラガービールの人気が高まってきたこと。そして、エールに比べてラガーのほうが成功率が高かったことだ。パスツールの「ビールの研究」でも、常温で発酵させるエールは20%の確立で酸敗すると記されている。ひとつでも酸敗すれば、その醸造所内のエールは壊滅する。こうしてピルゼン・ラガーへと舵をきることになった。 ピルゼン市の醸造家たちは協力しあって、市民醸造所を建て、バイエルン公国から醸造職人を呼ぶことにした。ピルゼン市に派遣されたのは、醸造技師ヨーゼフ・グロルとその仲間たち。さっそく、ゼードルマイルたちが分離したミュンヘンラガーの酵母を持ち込み、ボヘミアのホップ、ピルゼンの水でビールを醸造する。 そして、1842年11月。 熟成が終わって、試飲会。醸造家たちは出来上がったラガーを見て驚愕する。まったく色が異なっているのだ。それまでのエールも、そしてミュンヘンラガーもビールといえば「ダークカラー」だった。グラスに注がれたピルゼン・ラガーは「黄金色」だったのだ。 失敗かと思いながらもピルゼン・ラガーを口にした醸造家たちは、その驚きが大きな喜びに変わる瞬間を味わうことになる。 「美しい黄金色。力強い泡立ち。キレの良いうまい味わいは、いまだかつて味わったことがない。飲んだ人たちはわっと感嘆の声を上げた」 ピルゼン・ラガーの誕生だ。 ミュンヘンラガーはダークカラーで濃厚な味わいだったのに、ピルゼン・ラガーは黄金色でスッキリとした切れ味のある喉越し。そして、泡立ちの良さが圧倒的に良かった。 この違いはどこから生まれたのか。この理由が判明するまでに半世紀を要するのだけれど、理由は水だった。ミュンヘンやロンドンの水は、重炭酸塩が多い硬水で濃厚な味わいに適したものだった。それに対して、ピルゼンの柔らかな軟水が、このスッキリとしたキレの良いビールを生み出したのだ。 ペール・エールでも紹介したとおり、ガラス容器が主流になったことでビールの見た目にも注目が集まるようになっていた。これが、ピルゼン・ラガーを後押しする。澄んだ美しい黄金色を雪のようなフワフワとした泡。ピルゼン・ラガーは、じわりじわりとヨーロッパ大陸全体でその人気を伸ばしていく。 さて、同時期のデンマークだ。カールスバーグを創業したヤコブ・ヤコブセン。彼もまたゼードルマイルの影響を受けたひとりだ。理想のビールを作るためにコペンハーゲンからミュンヘンまで出かけていき、1845年ゼードルマイルから2本の小瓶に入ったラガー酵母を分けてもらう。これを持ち帰って、デンマーク初のラガービールを醸造することに成功する。 当時の主な移動手段は馬車。そんななか酵母を運ぶのはとても大変だった。発酵タンクから酵母を取り出してから1週間位。0℃で保存しても健全な状態に保てるのは、それが限度だ。所々で馬車を降りては井戸水で冷やす。そんな作業をしながらの旅立ったようだ。その距離約1000km。現代でも車で12時間の道のりだ。幸運にもラガー酵母はコペンハーゲンの醸造所で元気に活動を始めた。 1846年。デンマーク初のラガービールが誕生する。ヤコブセンは息子のカールから名前をとって社名をカールスバーグとして起業する。今までは手工業だったデンマークのビール醸造が近代的な工場スタイルに移り変わる瞬間だった。 1875年。ヤコブセンはカールスバーグ研究所を設立する。研究熱心だったヤコブセンは、各地のビール醸造技術を学ぶだけでなく、独自に酵母の研究を開始したのだった。研究所の微生物部門にエミール・ハンセンが単細胞分離することに成功する。酵母を完全分離することで、酵母だけで純粋培養することが出来るようになるのだ。カールスバーグ研究所、そのハンセンが開発した「酵母の純粋培養装置」が、その後のビール醸造工程を大きく変えていった。多くのビール工場が微生物管理を行うようになっていったのだ。 同時期のミュンヘン。ゼードルマイル率いるシュパーテン醸造所で、革新的な技術が取り入れられる。カール・フォン・リンデが発明したアンモニア式冷凍機の導入だ。リンデは工学教授として冷凍技術に関する論文を発表したのだけれど、これがゼードルマイルの目に止まったのだ。リンデの構想したアンモニア式冷凍機はシュパーテン醸造所と共同で研究が進められ、その第1号はビール醸造用として設置されることになった。 ラガービールは、低温で発酵して、低温で長期熟成する。リンデの冷凍技術がラガービールの生産量を大きく伸ばすことになる。それまでは、発酵は気温の低い冬。そして、冬であっても自然界にある氷を切り出してきて樽を冷やし続けるしかなかったのだ。「1キロリットルのビールを醸造するのに、1トンもの氷を必要とした。」パスツールの「ビールの研究」にもこういった記載がある。 リンデの冷凍技術のおかげで、1年中いつでもラガービールを醸造することが出来るようになったのだ。そして、ゼードルマイルが予想もしなかった方面でも冷凍技術が活躍することになる。つまり、どこでも醸造できるようになったのだ。 こうして、ミュンヘン、ウィーン、ピルゼン、コペンハーゲンが、それぞれのスタイルのラガービールが登場し、それぞれが競い合うようになっていく。特に、地理的に近いミュンヘンとウィーン、ピルゼンは互いの影響が強かった。一時期はミュンヘン、ウィーン、ピルゼンそれぞれのラガーは三大ラガーとまで呼ばれていたのだけれど、徐々にピルゼンラガーが他を圧倒していく。 ミュンヘンの醸造家たちは、ピルゼンラガーの人気を見て黄金色のラガーの試作に取り掛かった。ほどなくして、パウラナー醸造所とゼードルマイルのシュパーテン醸造所がピルゼン風の淡色ラガーの醸造に成功する。淡色のという意味でヘレスラガーとも呼ばれているけれど、これをピルスナーという名前で売り出した。 これに驚いたのはピルゼンの醸造所だ。ミュンヘンで作られたのにピルスナーとは。で、ミュンヘンに対して異議申し立てをして、最終的に裁判で争うことになった。これにミュンヘン側がびっくりする。ピルゼンラガーってミュンヘンラガーの分家だよねという意識があったし、ピルスナーというのはピルゼン風という意味合いで使った名称だからだ。裁判の結果は「ピルスナーは一般名詞である」ということになり、世界中でピルスナーラガーを醸造して名乗れるようになっていくのだ。 ピルゼン市では「ピルスナー・ウルケル」と言って、世界各地で作られるピルゼンラガーもどきと区別している。ウルケルというのは「本家、元祖」を示すチェコ語だ。 ピルゼンからずっと南にチェスケー・ブジェヨヴィツェという街がある。ここもまた古くからビールを醸造してきた町だ。実は、ブジェヨヴィッツェという名前が、誰もが知るビールの商標になっていることは意外と知られていない。 ブジェヨヴィッツェは、ドイツ語読みをするとブドヴァイゼル。そして英語読みをすればバドワイザーとなる。 神聖ローマ皇帝カール5世の弟にして、チェコ王国の国王でもあったフェルディナントが心底愛したビールが、このブジェヨヴィッツェのものだ。フェルディナントはハプスブルク家の人間である。母国語はドイツ語。だから、ブジェヨヴィッツェをうまく発音できないためにブドヴァイゼルと呼び、それを王室御用達に指定したところから、チェコ国内でもブドヴァイゼルと呼ぶようになっていた。後にフェルディナンドがカール5世の次の皇帝になった時、ブドヴァイゼル・ブドヴァルは神聖ローマ皇帝のための王立醸造所となっていく。 チェコにおけるブドヴァイゼル・ブドヴァル(ブドヴァルは醸造所の意味)は国営企業として現在もブドヴァイゼルを醸造し続けている。 ミュンヘンでピルスナービールを醸造するようになってからは、世界中でピルスナーを作るようになっていった。それほどにピルスナービールの人気は高かったのだけれど、技術の発展もその後押しをした。まず前述したとおり冷凍技術の普及。そして、軟水機の開発だ。ケッグなどの金属製の樽が整備された近代的なビール醸造は大規模工場へと変化を続け、大きな資本が投下されるようになっていった。 そして、新大陸アメリカでもピルスナービールは醸造されていた。 1873年、ミズーリ州のセントルイス。ドイツ系移民のアンハイザーは娘婿のブッシュとともにビール醸造会社を設立する。これが、現代において世界最大のビール企業アンハイザー・ブッシュ・インベブだ。 ピルスナーが全盛を誇る1876年。アンホイザーの跡を継いだブッシュは、ピルスナーよりもやや甘くスッキリとしたブジョヴィッチェのビールに目をつけた。そこで、ブッシュはブドヴァイゼル風のビールを醸造し、バドワイザーとして販売を始めるのだ。 ブドヴァイゼル・ブドヴァルはアンハイザー・ブッシュ社に異議を申し立てる。すでにブドヴァイゼルの商品名でアメリカへも輸出していたのだ。そもそも地名だし、商品は数百年前から販売しているわけだからね。今度は裁判ではなく話し合いで決着がついた。一旦は。市場を分割したのだ。本家ブドヴァイザーがアメリカへの輸出を行わない代わりに、アンハイザー・ブッシュ社のバドワイザーもヨーロッパへの輸出は行わない。 アンハイザー・ブッシュはヨーロッパ以外の各国に展開していく。チェコのブドヴァイゼルがやってくる前に各国で商標登録を行った上で、チェコ政府に対してブドヴァイゼルブランドでの販売差し止め訴訟を起こしている。現在も40以上の国で係争中だ。 ちなみに、アンハイザー・ブッシュ社はブドヴァイゼル・ブドヴァルに対して「商標権買収」の提案をしたのだけれど、拒否されている。アンハイザー・ブッシュにとってはただの商標であっても、チェコの国民には伝統と誇りの象徴なのだ。お金で解決できる問題じゃないだろうね。 S7-12 日本へのビール伝来とその裏側 さて、ここで日本へのビール伝来の話をすることにしよう。ヨーロッパ社会でのビールの進化とそれを取り巻く環境の変化を知ると、日本のビールがヨーロッパのそれとは違っていることが見えてくる。 なぜ日本のビールはドイツ式なのか? 日本独自文化の「生ビール」とはなんだろう。 海を渡ってビールが世界に広がっていったきっかけは、イギリスのインディアペールエールだった。そこで伸びていったのがバス社、その後アイルランドのギネスと続いていったのが1800年代の後半の出来事だったね。アジア市場はこれらのエールで独占されていた。ときは幕末から明治の頃だ。 日本でビールが販売され始めたのは、横浜。1853年7月。現代の神奈川県横須賀市浦賀置きに4隻の黒船がやってくる。これを契機に長らく続いた鎖国政策を終わらせ日本は開国する。翌年3月31日には下田港と函館港が開港された。 函館と下田では、江戸から遠い。開国を迫った諸外国は植民地支配を目論む国もあったけれど貿易がしたかったのだ。商業の中心地から遠いのはかなわんということで、横浜、長崎、神戸が追加された。この3つの港の近くには外国人居留地が作られ、そこに商人たちが住まうことになる。もともと小さな漁村だった横浜が都市化していくのはここからだ。そして、このときの主な貿易相手はアメリカではなくイギリスだったのだ。 アメリカが開国を迫ったのに、その後の主な貿易国がイギリスだったのには2つの理由がある。ひとつは、アメリカ国内で南北戦争が勃発したからだ。国を二分しての戦なのだ。海外に出ている余裕はない。事実、この期間は日本だけでなくアジア全域での対米貿易額は低下している。もうひとつは、もともと日本をメインの市場として捉えていなかったということだ。北太平洋で捕鯨活動をすることと、中国と貿易することが一番やりたいことであって、そのための拠点として日本を開いておきたいということだ。 一方でイギリスは資本主義経済の最先端の国だ。自由貿易を行える市場が欲しい。すでにインドや中国などアジアへの進出を果たしたイギリスが、新しく開かれたマーケットに積極的に参入してきたのは自然なことだった。 さて、話を横浜に戻そう。横浜の外国人居留地に最も多く移り住んだのはイギリスだ。1863年には約170人の外国人がいて、そのうち半数はイギリス人だったようだ。そこから更に外国人居留地の人口は増え、火災で家屋が焼けたことをきっかけに洋館が立ち並ぶ町に変貌を遂げていく。この頃日本国内で初の英字新聞「ジャパンヘラルド」が発刊されているのだけれど、その広告欄には外国から持ち込まれた食料品やワイン、ウィスキー、そしてビールが掲載されていた。ビールの銘柄は、もちろんバートンアポントレントのバス社とオールソップ社。アジア貿易でビールと言えばこの2つだ。特にバス社の人気が高く、日本国内でもバス社のマーク「赤い三角印」が知られていくようになっていく。 先に日本に上陸したのは、イギリスのエールだった。世界中の憧れイギリスのもの。けれども、わずか20年後の1870年(明治3年)、横浜で開業したビール醸造所「スプリングバレー・ブルワリー」はドイツ式のピルスナーラガーだったのだ。 理由は3つか考えられる。 ひとつは、その創業者の影響。 そして、明治政府がメチャクチャ「ドイツ推し」だったこと。 日本人にはエールが苦すぎたこと。 創業したのはノルウェー生まれのアメリカ人、ウィリアム・コープランド。彼はドイツ人醸造技師のもとでビールづくりを学んだ人物だ。日本にやってきた当初は、商社の一員だったが商社が解散してしまったため、特技を生かして個人ビール醸造所を始める。クラフトビールだね。 ところが、この「スプリングバレー・ブルワリー」も倒産の憂き目に会い、公売にかけられる。1885年(明治18年)にこれを買い取って創業されたのが「ジャパン・ブルワリー・カンパニー」。この時点でドイツから最新の冷凍機などの機械類や原料を輸入し、ドイツ人技師を招聘して醸造を行うことを会社の方針として定めている。1888年(明治21年)、「ジャパン・ブルワリー・カンパニー」から発売されたビールの名前が「キリンビール」である。そう、これこそが「キリンビール」の前身だ。 キリンビールの総販売代理店となったのは「明治屋」。明治屋は知っている人は知っていると思うけれど、現在でも食料品の販売代理店として経営されているよね。東京駅近くの京橋に歴史を感じさせる建物があるのだけれど、それが明治屋の本社。 明治40年にジャパン・ブルワリー・カンパニーが麒麟麦酒株式会社になるときに、明治屋の2代目~3代目社長が発起人になっている。とてもゆかりの深い存在だ。 フランス料理のモルチェというレストランも経営しているのだけれど、明治40年に開業した頃は「中央亭」。明治屋は大正14年から経営に乗り出し、フランス料理とキリンビールの提供もしている。自らが輸入している食材と、販売しているビールを世に広く普及させたい。こういうビジネスモデルの先駆者的な存在でもあるね。 「ジャパン・ブルワリー・カンパニー」は、三菱の社長岩崎弥之助(いわさきやのすけ)、渋沢栄一も出資をしている。岩崎弥之助は三菱創業者の岩崎弥太郎の弟ね。岩崎弥之助は、レストラン「中央亭」を開業させた人物の1人だ。 ちなみに、渋沢栄一はジャパン・ブルワリー・カンパニーだけじゃなく、「札幌麦酒株式会社」設立の発起人でもある。現サッポロビールだ。 ジャパン・ブルワリー・カンパニーも札幌麦酒会社も、実は明治政府関係者の影響を受けている。...