S3 お茶 たべラジ原稿

S3 人類を魅了するお茶物語

S3-1 人類を魅了するお茶物語

静岡県掛川市は、深蒸し茶の生産地として有名です。全国茶品評会で通算22回の深蒸し煎茶の部「産地賞」受賞は、誇れるものだと言える。お茶は日本全国のあちこちで栽培されているのだからね。

静岡県といえばお茶、お茶と言えば静岡県。このイコールで結ばれた関係が強ければ強いほどブランド力が強いということになる。日本の伝統文化といえば京都みたな公式も成り立つし、大都会といえば東京もそうだよね。もちろん、人によって地域によって違いがあるのは重々承知している。関西の人にお茶の産地を聞いたら多数の人が宇治と答えるかも知れないし、九州だったら八女や知覧をあげるかもしれない。だけど、統計をとれば一番多いのは静岡県なんだよね。

でもさ。なんで静岡県なんだろう。出荷量が多いのは間違いないけれど、そうじゃない頃から「茶処」って言われているんだよね。お茶が有名なところなんていっぱいあるのに、なぜ静岡県がこんなにお茶で有名になったのかが不思議だなあと思ってさ。日本にお茶が持ち込まれたのは西日本だし、煎茶の発明は宇治だし。それがなぜ静岡か。

あとね。もう一つ疑問があるんだ。そもそも、お茶ってなんなんだろう。かなり古い時代、5000年前にはお茶があったらしいんだけど、そこから世界中に普及していくわけじゃない。そして、お茶を巡って利権争いが起こったところもあるし、戦争に発展してしまった国もある。これは胡椒でも似たようなことが起きたよね。胡椒もそうだけど、麦や米みたいな「食糧」じゃないから不思議なんだよ。極端に言ってしまえば、人間の生命維持には関係のない部分の植物なわけ。それが、奪い合いになるのが不思議でさ。

今回は、この謎を掘り下げていきたいと思います。

静岡県にお茶を初めて持ってきたのが「聖一国師」というお坊さん。静岡生まれの「円爾」というお坊さんがいて、京都に行って、それから中国大陸に留学して、静岡に帰ってきた時にお茶を広めていく。で、この人誰?じゃない?そもそも、聖一国師が誰かもわからないし、もっとわからないのが「お坊さんが広めた」という事実。実は聖一国師以外にもいろんなお坊さんが全国にお茶を広めているんだよ。古代日本では僧侶がいろんなものを国内のあちこちに広めていく訳だけど、なぜ僧侶がその役割を担っていたんだと思いますか?
ということを掘り下げていったら、空海や最澄や栄西といった僧侶たちを学ぶはめになっちゃったし、そのルーツを探っていったら5000年前まで遡ることになっちゃったんだよね。じゃないと、僧侶とお茶の関係性を理解できなかったから。

今回は、歴史上の有名人がたくさん登場する。お茶の話だから、千利休と栄西は外せないよね。勝海舟や渋沢栄一や徳川慶喜も登場するし。あと、面白かったのが高林謙三。この人は製茶機械を発明した人なんだけど、埼玉県川越の出身なんだよね。近くに狭山茶という茶処があるのに、なぜか静岡県で近代茶工場に影響を与えているし、最終的には静岡県の菊川市で亡くなっている。
日本史の教科書には登場しないけれど、茶業に大小の影響を与えた人たちがたくさんいて、それぞれの物語がとても興味深いんだ。茶業振興は今もやっているけれど、たくさんの人達が日本茶振興に人生を賭けてきたし、それを受けて周りの人たちがいろんな動きをするのね。

その沢山の人達が積み上げた物語の先に、現代の茶業と茶文化がある。今やっていることにもちゃんと繋がるストーリーなんだよね。ということをざっとお伝えすることにします。

お茶の原産地と歴史

まず、お茶の原産地から行きましょう。これは有名だから知っている人も多いと思うけれど、中国が原産ですね。100年くらい前までは中国説とインド説があったらしいんだけど、いろんな文献でも中国での記述が多かったし、なにより1961年に樹齢1700年の茶樹が発見されたことで中国が原産というのが定説。ちなみに、この茶樹は高さ32m直径2.9mだそうだ。
インドや東南アジアもお茶の栽培が盛んだけど、遺伝子的には同じ種族で中国から伝わったものだということが分かっている。茶産業の歴史を比べてもインドは200年くらい、中国は3000年と言われていて、少なくとも1800年前に出版された「神農本草経(しんのうほんぞうきょう)」に、茶葉には解毒作用があるという研究が記載されているくらいだから、これ以前からお茶の文化があったことがわかるよね。

ついでに、紀元前2000年、つまり今から4000年前の中国王朝「周」の頃には、お茶は食べ物として使われていたらしい。そのころは苦菜(にがな)と言われていて、料理にも登場していた。この頃は草冠に余と書いて「茶」を表していたのが、唐の時代に今の「茶」という文字になる。陸羽が記した「茶経」が最初ね。

もっと古いところだと、神農帝(じんのうてい)という人がいる。紀元前3000年、今から5000年くらい前の人なんだけど、もう古すぎて人なのか仙人なのか神様なのか。とりあえずここでは人として扱うけれど、まあ伝説の人ね。この人は、あちこちの野山に入っていって、どの植物が食べられてどの植物に毒があるのかを試しまくった。で、当然だけど毒にあたることもあるんだけど、そのたびにお茶の葉っぱを食べて毒消しを行っていったと伝えられている。

いずれにしても、古代からずーっとお茶は「薬」としての位置づけだったということだね。今でもお茶は健康に良いことが分かっている。ざっと並べておくと。
抗癌作用。咽頭がんや胃がん細胞の増殖を抑制できる。
視力の維持作用。βカロチンには体内でビタミンAのようなパワーを発揮して視力を保つ。
老化防止作用。タンニンの老化防止作用はビタミンEの18倍。良質のアルカリ性飲料で、特に現代人は弱酸性になっていることから抗酸化作用が期待できる。
減肥作用。カテキンは血中のコレステロール値を低下させる。サポニンは脂肪分解に役立つ。
抗菌作用。カテキンパワー。白血病の補助治療にも臨床で使用される。O-157に対しても強い殺菌力。ブドウ球菌、コレラ菌、ピロリ菌にも有効。風邪の予防、虫歯予防にも。
免疫力向上作用。ビタミンCやアスパラギン酸の働き。アルゲニン強壮効果。
高血圧の降下作用。フラボノイド、カテキンによる血圧を下げる効果。
とまあ、たくさんの効果が分かっているのだから、古代から薬として扱われたことは理にかなっている。

健康寿命の長さとの関連についても、今研究がされているところ。掛川市や川根町は日本でもトップクラスの健康寿命が長い地域なんだって。毎日緑茶を飲んでいることが原因じゃないかということで、今も研究が進められているよね。

いずれにしても、お茶は薬として扱われていて、それが常飲されるようになっていくというのが大雑把な流れだということ。薬であるということが、このあと世界に広まっていく中で、特に初期段階では大きな動機になっているんだよ。

お茶の日本伝来

お茶が日本に伝来した時代は、実は明確になっていない。史漢(漢王朝の記録)によれば漢時代(紀元前)には日本に輸出したということになっている。その後、遣隋使で奈良時代に茶が伝来しているし、遣唐使で本格的に伝来するのが平安時代かな。このあたりで、貴族や僧侶の間では喫茶の習慣が始まる。
日本でのお茶の歴史の話になると、必ず登場するのが空海(774~835)と最澄(767~822)。空海は高野山を開いた人だよね。最澄は比叡山延暦寺の開祖。二人とも遣唐使船に乗って中国大陸に行ったからその時にお茶文化にふれることになったんだろうね。

一回整理するね。
中国では紀元前3000年くらいからお茶の利用が始まっていた。数千年の間は「薬」または「食用」として存在していた。6世紀~8世紀にかけて食用から飲み物へ進化して定着していった。飲み物になって定着した頃に「茶経」が出版されたのが760年頃。ある意味最初のお茶ブームが来ている時代に、最澄と空海が中国を訪れた。(804年)ということで、ここで日本に茶文化が到来することになる。正確にはこの2人がお茶を日本にもたらしたのかどうかもはっきりしないんだけどね。遣唐使それまでに何度か派遣されているから、少し前には日本にやってきていたのかも知れない。

まだ輸入に頼っていたから、遣唐使(630-828)が行き来している間は良いんだけど、遣唐使をやめてしまうとお茶が入ってこなくなるんだよね。だから、しばらくは日本での茶文化は定着しないままでいる。

再び日本にお茶の文化をもたらすのは鎌倉時代だ。栄西(1141-1215)というこれまたお坊さんが中国留学をして、もう一回お茶のタネと抹茶法を持ち帰ってくる。これが1191年。遣唐使を派遣しなくなってから350年経ってるんだけど。ここからが本格的な「日本のお茶」の始まりだ。ということで、お茶の世界でも「栄西禅師」は有名人かつ重要人物なんだよね。
中国で発展していた「抹茶法」というお茶の文化を取り入れることで、日本で廃れていた喫茶の習慣を復活定着させた人。だから、これ以降はしばらくは「お茶=抹茶」だ。現代人が想像する抹茶は「薄茶」だけど、本来の抹茶と言えば「濃茶」。薄茶よりももうちょっとドロっとしているやつね。
そして、お茶のタネと茶栽培法を持ち帰って、日本で初めて茶園を大々的に作った人でもある。

日本最古の茶園と言われているのが長崎県平戸の富春園(ふうしゅんえん)でこれを開くと、次いで福岡県と佐賀県の県境にある脊振山(せぶりやま)に茶園を開く。1202年には京都に建仁寺を開いて移り住んだあと、同じ京都にある高山寺(こうさんじ)の明恵(みょうえ)上人に茶のタネを譲る。ここで開かれた茶園が栂尾茶(とがのおちゃ)で、長い間これを本茶、それ以外を非茶といっていた。といっても全部京都近辺のお茶なんだけど。闘茶っていう遊びがあって、いろんなお茶の中から本茶を当てるのが鎌倉武士の間で流行した。明恵が更に茶を広めた先が宇治。今でも有名だよね。これが室町時代に栄えたことで栂尾茶は衰退していく。なぜ栂尾茶よりも宇治茶の方が隆盛を誇ったのかは、また後で書くことにするね。煩雑になるから。

1202年。栄西が京都に建仁寺を開いた年に、後に聖一国師(1202-1280)とよばれた僧侶が静岡県で生まれる。この人が、静岡茶の始祖だ。本名は円爾(えんに)といって、彼の死後になって天皇から「聖一」という「国師」がおくられる。ちなみに国師というのは、亡くなった人につけられる名前、諡号(しごう)の中でも最高位。国のお師匠、つまり天皇にとっての先生という意味合い。その第一号がこの聖一国師ね。
あちこちの有名なお寺で勉強をして、1235から1241年まで中国(宋)へ留学して、京都では有名な東福寺を開いた人だ。そもそもお坊さんとしてとても立派な人ね。その聖一国師が晩年(1270-)になって、生まれ故郷に帰ってきて医王山回春院(いおうざんかいしゅんいん)というお寺を開く。そこで、禅宗の教えを広めるんだけど、この時にお茶のタネを植えさせて茶園を開いたのが「静岡茶」細かく言うと「本山茶」の始まりだ。これが、後々静岡県をお茶の一大産地に育てることにつながっていくんだよね。

かなり大雑把な流れで説明してきたけれど、日本におけるお茶の伝達の流れは掴めたかな。この中で、実はとても興味深いことがあるんだよね。お茶を伝えていく役割を果たすのは、必ず「僧侶」だってこと。別に僧侶でなくてもいいじゃない。貴族でも商人でも構わないはずなんだ。
なんなら、遣唐船に乗っていたのは最澄や空海ばかりじゃないし、どちらかというと最澄も空海もオマケで乗せてもらったくらいの扱いだ。栄西が中国に渡ったのは「日宋貿易」を行う船に乗せてもらったわけで、商売に熱心だった平清盛の庇護を受けていたのだから、現代的な感覚であれば「お茶という商品を日本に持ち込むのは商人」ということになるはずなんだよね。だけど、違った。
中国から日本へ伝え、お茶の文化や栽培を日本中に広めていったのは「僧侶」だったというのがなぜか。それが興味深いなと思ってさ。

この時代の僧侶は、現代人の我々が認識する人たちとはちょっと違う。現代だと、宗教者としての側面だけだよね。だけど、この頃は「一級の知識人」という感じかな。当時は宗教という概念すらないからね。どちらかというと、思想。どう生きるか、どう社会を良くしていくかを説く思想。そして、そのために必要な知識を学んで来たというのが中国留学を終えた僧侶ってことになるかな。
彼らの知識がどういう扱いだったのかを現代的に表現するとどうなるんだろう。人文学、社会学、国の統治システム、国防、医療、本草学、建築学、工学、外国語、天文学。こういったものを総合的に習得しているのが僧侶なんだよね。もちろん厳密には現代のものとは違うけれど、当時の認識としてはこんな感じってことね。
だから、朝廷が国家公務員として留学させているわけだ。

特に注目したいのは、医療、本草学のところ。簡単に言っちゃうと当時の僧侶はお医者さんという側面を持っていた。衆生を救いたいと願って仏教に帰依しているんだから、民を救うために繋がる医学はとても親和性が高いよね。
思い出してもらいたいんだけど、超古代から古代までずーっと長い間お茶は薬として扱われてきたよね。そうなんだ。医者が薬草を広めたと思ったらどう?とても理にかなった行動だよね。僧侶がお茶を広めるということは、現代の感覚では医者が薬草を広めるということに近いかも知れない。
実際、日本茶の祖と呼ばれる栄西は「喫茶養生記」という書物を記しているんだよね。お茶の種類と抹茶の製法、それから多くの部分を「身体を健康にするためのお茶の効能」に費やされている。お茶を飲んだら健康で元気でいられるよってことを言ってるんだ。ちなみに下巻もあって、糖尿病、中風、不食、瘡、脚気に対する桑の効用が書かれている。こっちはお茶のことではないけれど、それだけ「健康と病」について熱心に伝えていたということになるね。

僧侶がお茶を広めたことについては、もう一つの説がある。
眠気覚ましとしての活用だ。ただ、眠気覚ましに使うだけなら、寺内に植えるだけで足りるんじゃないかな。別にわざわざ茶園を開くまでもないと言う気がするじゃない。だけど、実際に重要だったらしいのよ。
栄西が持ち帰った仏教は「禅宗」だ。とにかく瞑想が超重要。修行僧にとっては、眠気と心身の疲労との戦いだった。睡魔を退け、疲労を回復し、精神を爽快にする効用があると考えられていた。というのは喫茶養生記に記されているとおりだ。
実際、栄西にとって一番大事だったのは「禅宗」の教えを広めることなんだよね。そのためには瞑想の修行が不可欠で、その修業のためにはお茶が不可欠だと考えていたんじゃないかと思う。だから、今までは輸入だけで良かったものを、わざわざ「お茶のタネ」と「抹茶法」と「栽培方法」を持ち帰ったんだよ。喫茶法という作法までセットでね。そして、行く先々のお寺でお茶を植えて喫茶法を広める。お茶が広まればセットで禅宗が広がると考えていた節もあるよね。
ちなみに、お寺と眠気とのエピソードでは他にもあるんだ。お寺にはいくつかの「魚」にちなんだ物があるよね。木魚もそうだし、魚の形に掘られた木製の鳴子のようなもの。これは、魚が目を閉じないところに由来するらしい。ひとつには真理に目を開くという意味、そしてもう一つには眠らないという意味が込められているのだとか。

話を戻すと、お茶を伝えて広めたのは僧侶だった。と言う話だね。そしてなぜその役割が僧侶だったのかは、当時の僧侶は医者としての側面があって、お茶は薬として扱われていたという面をもっていたらからだった。これで、お茶が日本国内でどんなふうに広まっていったのかが見えてくるんじゃないかな。
ということで、ここからが本題。日本で有名な茶産地は「なぜ茶処として有名になっていったのか」について掘り下げていくことにします。

S3-2 日本で有名な茶産地は「なぜ茶処として有名になっていったのか」

現在日本国内の茶産地で有名なところはどこがあるだろう。お茶の生産は日本国内のほとんどの都府県で行われていて、北は秋田から南は沖縄までとかなり広域だ。生産量だけで言えば、静岡県と鹿児島県が圧倒的な量を誇っていて、この2県だけで全体の約45%を締めている。次いで、三重県、宮崎県、京都府ということになるわけだけど。
生産量が多いことと、茶処として有名であることは必ずしも一致しないんだよね。

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