2歳にもなると、カタコトの日本語を駆使しながら家族とのコミュニケーションが出来るようになってくる。まだま覚束ないことも多くて、日頃から接している家族しか理解できないようなシーンもあるのだけれど、子供の成長を感じられることは喜ばしいことだ。
彼女には、3歳年上の姉がいる。このくらいになると、文法を持った文章で話すことが出来るようになる。経験的に、何をどのようにすれば周囲に思いを伝えられるかがわかり始めているようだ。おかげで、わがままが加速してくる。
二人を見比べてみると、どうも下の子のほうが物怖じをしない正確のように見える。それは自分にとって実行可能なことなのだろうか。というような逡巡が感じられない。えいやっと、突っ込んでいく。で、うまくいくこともあるけれど、痛い思いをしてしょんぼりしていることもある。たぶん、いろんな家庭でも似たうような現象が見られるんじゃないだろうか。
「出来る」という感覚。それから「こんなモノコトがある」という知覚。年の近い姉を見ることで、勇気づけられるのだろうか。親くらい年が離れていると、あまりにも違いが大きすぎて得られない感覚。
ある程度近い条件のヒトがやっていることは、自分にも出来そうな気がする。例えば、体格差や知識の差があって、条件を誤認していたとしても、本人が「それ良いな。自分にも出来そうだ」と認識さえしてしまえば、挑戦するモチベーションにはなるのだろうな。
もっと挑戦しよう。というような言説はそこかしこで聞く。企業内でもまちづくりでも教育でも。で、わりと精神論に終止しているように思える。最近の若いやつは気概が足りない。みたいな感じで。それって、たぶん幻想で、世代との関連は薄い。それに、気合一発という話でもないのじゃないかと思う。
多くの人は、失敗して再起不能になるかも知れないと思ったら挑戦しない。素人が命綱なしでビルの壁をよじ登るようなことはないだろう。とても出来そうにもないし、失敗すれば大怪我をする可能性が高いから。挑戦することが出来るとしたら、今からトレーニングをしてそのスキルを手に入れられた時。更に言えば、トレーニングをすることでスキルを獲得することが出来ると信じられるとか、そのトレーニングを続けられると信じられるといったことが大切なんじゃないかと思う。
自分の未来や、成長性、現在の能力、といったものを信じること。他人からは無謀に見えるかもしれないけれど、自分にとっては「出来そうだ」と感じることで挑戦が可能になる。という意味で、先行者の存在は大きい。
先行者がいるおかげで、失敗のリスクを低減出来るだろうし、どんなリスクがあるかを知ることが出来る。場合によってはリスクそのものを回避することが出来る。
明らかに怪我をするようなこと、例えば屋根の上から飛び降りるとか、炎の中に手を突っ込むなどといったことは、あらかじめ避けられる。何も知らなければ、一度経験するしかないのだけれど、先行者の経験を学べば回避できる。道を歩いているだけでも転んだり事故に巻き込まれるリスクはある。リスクがあるということを知っていれば、警戒することも出来るし、トレーニングやテクノロジーでリスクを低減出来る。
というようなことを考えると、先行事例というのはとても有用だと思う。姉妹や親子のように身近に先行事例があることもあるし、時間をかけて会いに行かなければならないこともある。書籍から学ぶしかないようなことも然りだ。
今日も読んでくれてありがとうございます。まだ2歳と少しの彼女は、早くもこのステップに足を載せている。先行者に学んで勇気づけられて、失敗して挫折したり、成功体験が挑戦を加速させたりする。