気がつくと、一日の大半をかけて勉強していることがある。トイレに行ったり、ご飯を食べたりとそれなりに中断はするものの、朝から深夜まで続く。10代の頃に、これくらい勉強に集中することが出来ていたら、というタラレバを考えてしまうのだけれど、意味のないことだ。それにしても、来店予約もなければ仕込みをする必要もないとは。飲食店経営者としては由々しき事態ではある。まぁ、そういう日もあるということだ。
本を読んだり、それに関連したことを調べたりするのは、けっこう進捗を感じられる。もちろん時間も労力もかかるのだが、アウトプットすることに比べればずっと「量」が多い。
例えば1時間で読み進められる文字量と、書くことができる文字量を比べたら、読む方が多いのじゃないだろうか。勉強するときは、ノートを取ることにしている。自分なりに理解したことを、自分の言葉や図でノートに表現していく。これもまた小さなアウトプットだし、それなりに時間もかかる。ちゃんと自分の頭で考えなければノートに表現できないからだ。実に亀のようにゆっくりと読書をしているはずなのだ。にもかかわらず、エッセイや原稿を書き進めるスピードは、亀よりも遅い。
どういうことだろう。自分の言葉で表現できるほどに理解が深まっていないのか。それとも、自分の中にある概念や思考や情報を、うまく文章にできないのか。こうして、書いているときにも、筆が進むときもあれば、急に止まってしまうこともある。これは一体なんなのだ。
そういえば、筆の進み具合が遅くなったのはエッセイのほうかもしれない。たべものラジオの現行は、一度イメージが固まってしまえば、比較的スラスラと書けることがある。あんまり調子に乗っていると、文頭と文末の話が噛み合わなくて、読み返したり書き直したりするくらいのものだ。これに対して、エッセイではよく立ち止まる。
思ったことをつれづれに書き綴るだけのもの。それが随筆だと教わった。だから、スラスラと書けそうな気がする。実際に、そういうこともあるし、比較的以前のほうがスラスラと下記進められていたかもしれない。言葉がたち現れてこないのは、心に浮かぶよしなしごとがないのか、それともうまい表現をしてやろうというスケベ心があるのか。
ポッドキャストでは、ペラペラと喋り倒しているのだ。話していることをそのまま文字にすれば良いはずだ。とは思うのだけど、そうもいかない。話し言葉は、あくまで話し言葉。文頭と文末がバラバラであることも多いし、話を途中でやめてしまうこともある。それでも伝わるのが音声言語の面白いところだ。ところが、書き言葉の場合は、きちんと前後の整合性を取っていかなければいけない。つまりは、きちんと整理ができていなければならないのだ。
整理というのは、ひとつにはグルーピングが大切。それは知識だったり感情だったり、様々な情報を、ちゃんと分けておかなくちゃならない。江戸の話とメソポタミアの話をごちゃ混ぜにしするとわからなくなってしまう。もう一つには、順序が大切。物語とか文脈と言ってもいいし、論理でもある。紡ぎ出されるのはメロディーのようなもので、順番が変われば違った歌に聞こえるものだ。
たべものラジオは創作されたコンテンツだから、台本を書き起こす段階である程度は「整理」を行っている。だから収録の段階で困らないのだが、それは大まかな流れの話。発話する文章の一つ一つにまで「整理」の意識が「行き届いている」かというと、そうではない。気を付けてはいるけれど、流れが悪くなったり、伝わりにくくなるくらいならば乱れても構わない。という感覚がある。
文章の場合は、とても細かいところまで気を使って「整理」をしているのかもしれない。だとするならば、文章と書くという行為は時間がかかるのも仕方がないのだろう。
今日も読んでくれてありがとうございます。あらかじめ言いたい結論があるわけでもなく、書きながら考えていたから、今日の話はどこにたどり着くのかわからなかった。で、一応の結びにはなったのだけれど、なんだかしっくりこないんだよね。意見や感想があったら、ぜひ教えてほしい。