「それってあなたの感想ですよね」。一時期このセリフが流行していた。飲み会のときにでもネタで言うのなら笑えるけれど、真剣な議論に持ち込まれるのには辟易した。説教されているときに子供が言うようになってしまったらしいと聞いたときにはため息が出た。
いくつか思いつくことある。まずひとつは、「専門家の感想は、一般人のそれと同じではない」ということ。サッカー漫画のアオアシにこんなセリフがある。「考えて考えて考えて、考えずに動けるようになったときに自分のものになる」。全員がそうだとは言わないけれど、何かを追求する人に共通する感覚かも知れないと思っている。今のところうまく言語化が出来ていないけれど、なにかを掴めそうな感覚。
うまく言語化されない時、人によっては感想のような直感のような表現をすることがある。父にしてもそうだ。なんとなくこっちのほうが美味しくなりそうな気がする。なぜと言われてもわからない。外れることもあるけれど、高確率で的中するのだ。それは、言語の外側で理解しているなにかがあるのだろう。
まぁ、これでは議論が成立しないのだが。
議論で交わされるのは意見。意見を言ったら、それは感想だと言われる。じゃあ、意見というのはなんだろうね。そもそも、意見というのは「私は◯◯だと思う」というものじゃないだろうか。感想と違うのはなんだろう。「◯◯だと思う理由」が論理的に構築されていることなのか。それならば意見のように聞こえる。もしそうだとしたら、論理の根拠となるものが欲しい。データとかファクトがそれにあたるのか。
でも、同じデータとファクトを並べても、意見が食い違うことはよくある。これはどうしてだろう。解釈が違うのか。解釈が異なるときっていうのは、たいていの場合は視点が違うとか、価値観が違うのじゃないだろうか。
あなたの親である私は、今と数年後の両方を思って心配している。という視点と、今この瞬間の自由意志を束縛されたくないという子供。共通しているのは、子供の幸福だろうか。幸福の解釈は親子で大きな差がありそうだし、見ている時間軸が違う。
時間という意味では、今この瞬間にしか体験できないことなのか、それとも後回しにしても体験できることなのかという観点もある。大人から見れば他愛もないアニメかもしれないけれど、子供にしてみれば今しか見られないものだと認識しているかもしれない。「今」であることが重要なのだ。だとしたら、後からでも出来る宿題は後回しにしたいというのもひとつの判断。
アニメと宿題、それから優先順位。もう、決定的に価値観が違う。価値観が違うから、その後の論理展開が整合性を持っていても意見が異なる。そう。よくあるのだ。対立し合う意見があって、それらを客観的に聞いていると、そのどちらも論理的に矛盾がなくて「たしかになぁ」と感心してしまうことがある。
議論の途中経過って、だいたいそんなものなのかもしれない。最終的に合意形成が出来ればそれでいいのだ。というか、議論って合意形成のためにあるんじゃなかったかしら。だとするなら、「あなたの感想ですよね」って不毛だ。根拠や論理がわからないとか、矛盾してないかとか、どういう価値観なのか、をクリアにしていくような質問にしたら良いのかもなあ。互いに知っている情報が一致していなかったら、情報共有するとか。
なんともまとまらない文章になってしまった。そりゃそうか。モヤモヤしたまま書き始めちゃったからなあ。
今日も読んでくれてありがとうございます。最近ね。会議で「ただの感想を述べます。」って宣言してから喋るってことをやってみている。ときどきね。意見なのに「感想です」って言ってしまう。けっこうみんなキョトンとしているんだけど、時々その感想があとになって有効打に変化する時があるんだよね。という遊び。