作法とかマナーってなんだろう。何だと思う?もしかしたら、既に番組内で喋ったか、それともこのエッセイで書いたかもしれないけれど、ひとつの理由は「テンプレート」だと思っている。
もし作法やマナーが「決まりごと」になっていなかったら、状況に応じて合意形成をしなくちゃいけないはずなんだよね。周りの人が不快に思わないために、どのような振る舞いをすれば良いのか。そんなことをイチイチ考えながら食事をするのは面倒だ。しかも、それが時々で変わるなんてことは御免被りたい。そんな理由から世界中のあちこちで「そういうことにしておく」と決めた人がいるんだよ。偉いのかどうかは知らないけど。とりあえず便利なんだとは思う。
一方で、「それホントにいる?」っていう作法もある。誰が言い出したのか知らないけれど、「お酒のお酌をするときには徳利の注ぎ口を使わずに、反対側から注ぐ」というのだ。じゃあ、何のために注ぎ口を作ったのかわからないってことになるよね。注ぎ口っていうのは、こぼれないで快適に使うために工夫されたものなんだからさ。イマイチぼくには意味がわからない。尖った部分を向けるのが失礼だってことらしいんだけど、そんなこと誰が決めたんだろう。面白い。
そもそも、人間って「意味のない物事に意味付けをする」生き物なのかもしれない。作法とは関係なくても、「これはきっと何かの祟かもしれない」とか考えちゃうんだろうね。いや、たまたまぶつかって怪我しただけじゃん、っていうような出来事もさ。神社にお祈りした帰り道だったりすると、意味を考えてしまう。本来何の意味もないはずのものも、意味があるように思えてしまう。
不思議だなあ。
神社の鳥居は真ん中を通らない。そこは神様の通り道だから。ということだけど、ホントに神様がいるかどうかもわからないし、いるとしても真ん中を通るかどうかもわからない。水神様が鳥居をくぐるのだろうか。と首を傾げてしまう。だけど、そういうことになっているし、そういうことにしておくのだ。
日本だけじゃなく、世界中の万事がこんな「意味づけ」で作られていると思うと不思議だ。
信心の話になるとややこしいので、作法に戻ろう。日本料理では、複数の食べ物が盛り込まれた皿は手前から食べることになっている。それはいいよね。せっかくキレイに盛り付けられているので、なるべく食べ終わるタイミングまでキレイなカタチで進めていく。で、左からっていうのはどういうことだろう。
例えば、長方形のお皿に3つの料理が並んでいる。まるで信号機みたいに。そんな時は、特に指定がない限りは左から食べることになっているのね。盛り付ける人も、食べる順番は左からだと思って盛る。味の薄いものを左に置く。そういうことになっているのだ。
前者は美意識かな。美しいって、大切な観念なんだろうね。もしかしたら、後者も美意識によるものなのかな。ちょっとだけ調べてみたんだけど、分からなかった。そのうちにヒントに出くわすかもね。とりあえずは、美しさを求めるという行動もあるんだろうと思う。
今気がついたのだけど、日本には昔から左上右下(サジョウウゲ)という観念があるから、それが理由かもしれない。左を上位という考え方だ。ひな祭りの人形も向かって右側に座っている左大臣の方がおじいさん。つまり上位だ。服の前合わせも左が上。同じ理由で襖や障子も左が上。舞台の上手下手も同じ。
さて、左を上位とする観念は一体どこからやってきたのだろう。人類が共通で感じるものじゃないだろうしね。実際、西洋では右側を上位とする考え方が多いみたいだし。ほら、雛人形も江戸飾りは左右が逆転しているでしょう。あれは、確か大正天皇の即位の礼が発端じゃなかったかな。衣装が洋装だったから、西洋式にしたとか。そしたら、関東では左右逆で飾る流行が生まれて、いつの間にかそれが定着してしまったんだとか。完全にうろ覚えだけどね。
美意識って、後から作られることもあるんだよね。作法でそういう事になっていて、「そういうこと」で育った結果「そういうこと」を美しいと感じるように成長する。うーむ、ややこしい。
今日も読んでくれてありがとうございます。「そういうことにしておく」「美しいと感じる」ということが、どこでどの様につながっているのだろう。謎だなあ。どうでも良いって言えばどうでも良いのだけどね。ただ、日常生活の中に深く根付いているものだから気になっちゃって。誰かわかる人いる?