海。と、突然聞かされて、何を想起するだろうか。何かしら景色なのか、それとも波音や海辺の人々の声だろうか。それとも、海に関する言葉やデータだろうか。
よくわからないのだけれど、ぼくらの脳は物事を理解する時の癖というのがあるらしい。その時に、映像で理解するのか、それとも音で理解するのか、または言語で理解するのかという、傾向があるってことらしい。その簡単なテストが、冒頭の質問なのだそうだ。音声付きの動画が脳内再生されたぼくは、一体どれに分類されるのだろうか。
小説を読む時には、文字を読んでいるようでいて、実は映像を見ているという感覚がある。目で追いかけているのは確かに文字なのだけれど、文字によって想起される映像が、まるで映画のように脳内再生されていて、まるで映画でも見ているような感覚。小説が好きな人達は、だいたい同じような経験をしているんじゃないだろうか。直接聞いたことはないから、勝手にそう思っているだけなのだけれど。
小説を書いている作家さんは、どうなのだろう。元々、作家さんの内側にイメージや映画みたいなものがあるとして、それを言葉に変換しているのかな。小説を書いたことは無いのだけれど、ずっとずっと前に日常的に詩を書いていたことがある。
まだ十代の頃。中学高校時代。友達数人と一緒にバンドをやっていた。音楽は好きではあったものの、得意というわけでもなかった。けれども、友達となにかを作り上げるという行為が面白くて、音楽活動のようなことをしていたのだ。そうした中で、ただただ格好良いと言うだけの理由で、オリジナルソングを作ることにして、そのために詩を書いていた。所詮は素人の言葉遊びなのだけれど、それでもたまには友人たちに褒められるような詩を書くことができたという経験もあった。それは決まって、ぼくの中にある何かしらのイメージを拙い言葉で必死に紡ぎ出したものだった。
イメージをイメージのままに伝えることができれば、言葉なんかは要らない。なのだけれど、言葉にすることでしか表現しようがない場合には、イメージを劣化させることを承知の上で言葉にお聞かるしか無い。というのがぼくの感覚だ。シューベルトやリストが演奏したピアノ曲を、ぼくらは楽譜を通して聞いた気になっている。彼らの音を聞いたことが無いにも関わらず。言葉というのは、どうにもまどろっこしい道具なのだろうと思う。
言葉を紡ぐ行為は面白い。イメージを正しく伝えることが難しいほどに、言語表現は荒く雑な伝達手段。なのだけれど、そのおかげでイメージが解像度を下げることになる。
「海辺。春の朝は、Tシャツで歩くにはまだ肌寒く、ストールの一枚でも持ってくれば良かったと少し後悔する。それでも、鼻先を通る冷たい海風が心地よく、東の空に張り付いた太陽が少しずつ暖かさを届けてくれる時間を味わいたくて、その場を動かずにじっと耳を澄ませた。穏やかな波音に混ざって、遠くの電車の音が聞こえた気がした。」
と、こんな情景描写をしてみたのだけれど、どんな風景を思い浮かべただろうか。ぼくなりに一生懸命考えて、頑張って言葉を並べたのだけれど、きっとぼくのイメージとは違うものになったことだろう。一人称を使わずに文章を書いてみたのだが、語り部が男なのか女なのかも人によってイメージが違うだろう。まっすぐに横に伸びる浜辺かもしれないし、小さな湾かもしれないし、港のようなところかもしれない。これが、映像であれば、単一の答えを導き出して伝えることが出来るのだけれど、言葉では全てを伝えることができないのである。
伝えることができない分だけ、同じ作品を読んでも、人によって抱く映像イメージが異なる。だからこそ、それが面白いと思う。読者によって、別の物語を作り出しているとも言いかえられる。創作された文字によって、二次創作をすることが小説を読むことなのかもしれない。読書が創作行為に通じているということなのだろうか。
物語は、最も古典的で人間の特性を生かしたメタバースなのだろう。きっかけは必要だけど、それによって心の中に作り出されるメタバース空間は自分だけの体験である。ぼくらは、言葉で捉えた理解よりも、体験から得た理解のほうが深くて強いという特性を持っている。頭ではわかったつもりになっていたけれど、いろんな体験をしていく中で腑に落ちる瞬間に出会った事がある人は多いだろう。それをメタバース空間で疑似体験できるのが、物語なのではないだろうか。
今日も読んでくれてありがとうございます。たべものラジオが、ただの解説番組にならないでいるのは、時々落語のような会話文が登場するからだ。先日、リスナーの一人である母にそう言われた。そうかもしれない。ジャガイモシリーズに登場した川田龍吉や県令の湯地、茶シリーズに登場した高林謙三や河村宗平、中條景昭は、なんとなくイメージが残っている。音声コンテンツの面白さなのかもしれないな。もっと上手に伝えられるようになりたいな。