相手の立場に立って考える。というのは、ちょっと意識すれば出来そうな気もするけれど、そうはいかない。例えば、小売業などで「お客様の立場に立って」という言葉がよく聞かれる。そうすると、「もし自分が客として来店したら」と考えることが多いようだ。あくまでも、ぼくが現場で観察してきた限りだけど、そうした傾向があるように感じる。
これが大問題だとは言わないけれど、ちょっと物足りないのじゃないだろうか。上記の例ならば、販売員が「私の感覚」を持ち込んだままお客様になったつもりになるということが起きやすい。ちょっと極端に言ってしまえば「商品知識がある」状態のままということも有りうる。さすがに専門職でそれはないかもしれないけれど、人それぞれに人生があって、それぞれの背景によって価値観があることを考慮していないということはよくある。
当然だけれど、他人の人生なんかは知りようがない。だから、他人の価値観を知ることはできない。ただ、想像することは出来るし、寄り添おうとか、知ろうという態度でのぞむことは出来ると思う。と考えるのは、小売業や営業職を経験した私だからなのだろうか。
この人ちょっと変わっているな。と感じたことは一度くらいあるだろう。で、そういうときは「変わっているのはぼくの方かもしれない」と思うように努力している。出来ないことも多いけれど、意識はしているつもりだ。
読書はいいよ。と思うのは、こういうことからも感じるのだ。勉強することで知識を得られるのはその通りなのだけれど、それ以上に「いろんな視点や価値観」にふれることが出来るから。小説でもいいし、歴史でもいいし、何でも良いのだけれど、それまでの自分には想像もできなかった思考をする人を登場することが有る。そんな発想があるんだってね。で、どうしてそういう発想になったのかは、背景を知るとぼんやり見えてくる。たぶん、たべものラジオの中で登場した人物たちにもいたし、社会現象として出現したことも有ると思うんだ。時代背景を考えると、そうなるかもね。くらいのことは見えてくる。
ある時、地元ビジネスマンの勉強会で、報徳思想を学び直そうということになった。専門家の講話を聞くこともしたけれど、その前に映画鑑賞をしようということに。ライトなところから入って、徐々に深めていこうという流れ。鑑賞する映画はもちろん二宮金次郎。
研修を主催するチームで、事前に映画を見た。クイズを作ったり、時代背景などの補足情報を作ったりするためだ。5〜6人で鑑賞したのだけれど、これがなんともおもしろかった。ある人は村人の心情の動きに注目し、ある人は全体の流れに注目した。金次郎の生い立ちに意識が向いた人もいれば、農村復興の手法が現代にどう活かせるかを考えた人もいた。なかには、映画のカット割りに注目して、監督や脚本家が報徳思想のなにを伝えようとしたかについて考えた人もいた。
そんな違いを、ぼくらは純粋に面白がった。「その視点はなかったなあ。」とか「そこは見落としていた」とか。違う視点があることを面白がれると、話は膨らむし、思考は深まっていくという感覚があった。こういう感覚は、接客やマーケティングにも通じるところがあるように思う。
たべものラジオでは、なるべくフラットに事象を伝えようとは思っている。けれども、かなり強くぼくらの視点が組み込まれているはずだ。最近はそれでいいと思っている。フラットな事象とともに、他の誰かの視点が入ってくることで、同意する人もいれば違った意見を持つ人がいる。意識していなかったことが、意識されるようになる。なんてこともあると思うのだ。
今日も読んでいただきありがとうございます。これね。言葉で伝えないとわからない部分もあるんだけど、言葉だけで理解しちゃうと難しくなっちゃうんだよね。相手の立場を汲み取ったあとのアウトプットは言葉だけじゃなくて、行動だからさ。その行動が相手に伝わる。だから、自分の意識と行動を把握しなくちゃいけないんだよね。というようなことを、かなり前に研修で話したということを思い出した。