「料理は、食べる人がいて料理となる」とか言うと、誰かの名言みたいに聞こえる。そんな話は聞いたことがないのだけれどね。どんなに美味しくて美しい料理をこしらえたとしても、誰も食べないのだったら絵に描いた餅だ。いや、見た目も朽ちていくのだから餅の絵よりも儚いか。
誰かのために作られたモノは、誰かに利用された時に初めて存在意義が発生する。というのは料理だけじゃないんだろうな。絵も音楽もそうだ。もちろん、自分自身の中から湧き上がってきてしまって発散させずにはいられないという衝動が根源にはあるだろう。それでもやっぱり、こころの何処かで誰かに届くだろうことを想像している。ましてや実用品や、実用性を兼ね備えたモノは、使う人が存在することに意味がある。そう考えてしまうんだよね。
小学生の頃に教科書に載っていた「おじさんの傘」を思い出す。大事にしすぎて使われない傘。それって何のためにあるんだろう。考え出すとずいぶん哲学的な話になりそうだな。小学一年生の教材だけにとどめておくのはもったいない。こんど、酒の肴にでも誰かと話してみようかな。
物質は観測された時に確率的に存在する。原因は存在しないが、結果が確定した時に原因となる事象が確定する。浅い知識だけど、量子力学だったっけ?仏教だったかな?こんなところとも繋がりそうだ。
人間社会の面白いところは、原因と結果の両方を行き来するところかな。料理を作る人は、当然だけど誰かの料理を食べる。ぼくだって外食するし、家族が作った料理を食べるんだから。
車を作っている人も車に乗っている。ぼくも車に乗る。
作る人と使う人。というルートを、モノではなくて人で見ていくと、かなり複雑に絡み合っているのがわかるよね。今こうして文字を打ち込んでいるパソコンもいろんなパーツをつくる人がいる。本を書いた著者も編集者もいれば、印字する工場で働く人もいるし、紙を作っている人もいる。
ぼくの生活の中にあるモノのうち、ほとんどのことは「誰かが作ったもの」だ。みんながみんな、その道のプロフェッショナルとして活躍している。だからこそ、ぼくの手元にはモノがあふれている。ほんの100年前には存在し得なかったモノが大量にあるんだよね。いやまあ、ホントにスゴイことだ。誰に感謝して良いのかすらわからないけれど、ありがたいことだなぁ。
誰に感謝して良いのかわからない。そのくらいのつながりだから、普段わからなくなっちゃうのかもなあ。「いただきます」という挨拶は、明治時代に国民教育という観点から作られた挨拶だ。それまでには存在しなかった作法。ちなみに、「いただきます」に方言がほとんど見られないのは、日本という統一国家の概念が成立した後に出来た言葉だからだそうだよ。
それはさておき、この「いただきます」は良いな。一人で食事をするときには、うっかり声に出さないでいることもあるけれど、心のなかでは唱えている。食べるという行為に限っての挨拶ではあるのだけれど、その瞬間だけは作り手に対して感謝する。極々短い瞬間に、料理を作った人だけじゃなくて食材の生産者や土や天のような自然を想起するんだからスゴイことよね。それこそ刷り込み教育だ。
ぼくらは、常にツクルヒトとツカウヒトを行ったり来たりしている。なのに、ツカウヒトになったときには、ついツクルヒトの気持ちを忘れてしまう。あそこが使いづらいだとか、デザインが悪いだとか。確かにそういう批評は必要だ。批判じゃなくて批評ね。それがあるから、進歩するのだ。とはいえ、欠点をあげつらって批判することも無いよなあ。それは、自分自身がツクルヒトであるときことを考えればよくわかると思うんだよね。
今日も読んでくれてありがとうございます。世界平和と言ってしまうとスケールが大きすぎて実感がわかないかもしれない。だけど、みんながみんな「ツクルヒトとツカウヒト」の関係だと考えれば、少しだけお互いの気持ちをわかりあえるかもしれないね。パワーバランスとか政治圧力とか、そういうことの前にさ。