和を以て貴しと為す。聖徳太子が言ったとされている言葉だね。有名な言葉だ。このセリフの「和」について、ちょっと思いついたことがある。
もしかしたら「和」は「輪」とも通じているのじゃないだろうか。言葉遊びみたいだけれど、大和言葉は一音一義だというから、可能性はあるよね。ひとつの音にひとつの意味を持たせているってことね。和と輪が同じ意味から派生したものだとしたら、その本質は繋がりということになるのだろうか。コミュニケーションとかね。そういう雰囲気。
これを思いついたのは、日本料理の変遷を見返しているときのこと。番組の本編でも話しているけれど、元々日本の食事様式は「コミュニケーション」のためのものだ。美味しいかどうかよりも、その時間空間は交流をして互いの繋がりを確かめ合ったり、強固にしたりするためのもの。極端なことを言ってしまえば料理なんかはそっちのけなのだ。
じゃあ、料理なんか食べなくても良いのかというと、そういうわけじゃない。一緒に食事をすることそのものが、人と人、人と神を繋げる媒介としての行為なんだよね。共同作業をすると仲良くなるっていうじゃない。そういった行為の最も簡単で、最も有効な手段。そこから発達したと考えられるんじゃないかな。
料理が美味しくなったのも、美しく整えられるようになったのも、互いのつながりを構築するための工夫だと考えると面白い。料理屋が登場する前は、料理を提供するのは館の主で、客は主の自宅を訪れる。主は客との繋がりを確かめ合ったり強固にしたりするために、宴の席を少しでも良いものにしようと工夫する。平たく言っておもてなしだね。お互いに楽しいとかいい気持ちになれば、それだけで共感が増すわけだ。さらに、おもてなしは気持ちを伝える手段でもある。言葉にしなくても、あなたといるのが嬉しいよとか、楽しいよとか、もっと繋がりを強くしたいんだよといったメッセージが込められている。客もそのメッセージを読み取って嬉しくなる。もしかしたら、言葉を重ねるよりも強いメッセージなのかもね。時として行為は言葉を超えることがある。どうも人間にはそういう性質があるようだ。
日本料理では「酒」がつきものである。まぁ、ハレの食事だけだけどね。ハレの食事とは、つまるところ酒を伴う食事のことなんだろうな。元々、日本文化では酒を常飲しない社会だったようだ。これは、ハレをよりハレとして認識するための工夫だったのかもしれない。
だからこそ、酒は「酌しつ酌されつ」なのだろう。自分の席を離れて、徳利や瓶を片手に誰かの席へ行く。というのは、日本の作法では褒められた行為ではないけれど。それで何がしたいのかって言うと、お酌に伺ったというていで会話をしたいのだ。とりあえず、なにかの行為を媒介すればコミュニケーションの発端となるからね。猪口や杯が小さいのは、アルコール度数が高いというのもあるかもしれないけれど、もしかしたらお酌の機会を増やすための工夫なのかもしれないよ。度数だけのことを言ったらワインだって近いものがあるしね。蒸留酒はもっと高い。
江戸期以降の懐石では主人が飯や酒などを乗せた膳を持って客席を回る。テーブルじゃないから、客のお膳の正面は空間だ。そこへ主人がやってきて、酒や飯を提供してくれるのだ。つまり、主人と客のコミュニケーションが図られているってことだね。
これが後の時代になって料理屋料理が発展してくると、だんだんと主客の関係が希薄になってくる。あるにはあるけれど、それ以前に比べればフラットに近づく。そうすることで相対的に客同士の関係が近づくことになるんだろう。
古くは神饌料理や大饗料理の時代にも、直会が終わったら宴会になるし、宴座が終わると穏座になる。いわゆる二次会だ。二次会は、それまでの主客の形式を取り払って、心理的にも物理的にもより近い距離感でコミュニケーションをとる場なんだよね。そう考えると、いつの時代もスタイルを変えながら「つながり」「輪」「和」を尊ぶ精神は一緒なんだろうと思う。
昨今の海外における日本食ブームでは、味や健康の面がフューチャーされているよね。これは、とてももったいない。なんでユネスコの無形文化遺産に登録されたのか。あくまでも「料理」ではなくて「食文化」なんだ。その中には明確に語られていないのだけれど、日本料理の本質はコミュニケーション。それも、一方的な奉仕ではなくて互いに歩み寄るスタイル。この文脈を伝えていかなければ、日本料理は日本料理ではなくなっていってしまう気がしてきた。
今日も読んでくれてありがとうございます。いろんな料理手法やスタイル、食材が海外からやってきた。それを全部飲み込んで、気がつけばどれもこれも日本流になってきたのは、全てを包み込む文化があったからだと考えられるよね。大きな風呂敷で包むような感じ。その風呂敷となっているのが、「和」という「つながり」を尊ぶ精神じゃないかと思うんだ。