かぐや姫って知ってる?フォークソンググループじゃなくて、昔話のかぐや姫。桃太郎や浦島太郎などと同じように、日本ではよく知られた童話。なのだけれど、案外知られていないのが竹取物語という原作の方。たしか、日本最古の長編物語で、成立年代ははっきりしていないものの源氏物語よりは確実に古いらしい。紫式部日記に記述があるくらいだから、それよりは古いはず。
その最古の物語が、ファンタジーっぽいのも興味深い。現代人から見れば古事記だって十分にファンタジーっぽく見えるかもしれないけれど、当時の人は「創作物語」だと思って書いたわけじゃなくて、歴史書として書いているわけでしょう。竹取物語は、誰が書いたかわからないけれど、「創作物語」っぽい感じがする。いや、わからないけどね。もしかしたら、歴史書としての神話の続編かもしれない。
竹取物語というタイトルも不思議だよね。物語を読むと、どう考えても主人公はかぐや姫なのに、竹取なのよ。「竹取の翁」というくらいだから、翁が主人公かのようなタイトルにも見える。まぁ、元々この時代の物語にタイトルなんか無くて、いろんな呼び方がされていたらしいけど。そのなかでも「竹取」という言葉が残っていくのだから、ぼくらの考える意味
和歌などの日本文化には「掛詞」というのがあって、しかもそれぞれの言葉に暗号のような意味が付与されている。日本の古典をちゃんと読み解こうとしたら、「掛詞」と「暗号」を理解しなくちゃいけない。そして、これは現代にも通じることだけれど、オマージュとして登場するそれ以前の作品や社会情勢を知らなくちゃいけない。これは習得するまでに時間がかかりそうだ。
さて、少ない知識でどこまでたどり着けるかわからないけれど、素人なりに推理を巡らせてみることにしよう。
竹というモチーフは、よく登場する。現代でも「松竹梅」とうな重のランク付けに使用されるのだけれど、本当は順位など無くて、それぞれに意味が付与されている。
「松」は、常緑樹であることから「不老不死」や「永遠」の象徴。
「竹」は、成長が早く増殖することから、「子孫繁栄」や「生命力」の象徴。
「梅「は、寒さに耐えて先駆けて花を咲かせることから「忍耐力」「気高さ」の象徴。
なんとなく、コノハナサクヤヒメとイワナガヒメを想起させるね。
元々、大陸にあった「歳寒三友(サイカンサンユウ)」という観念が伝わったものだそうだ。厳しい寒さを耐え抜いた純真な生命というようなイメージ。そう考えると、忍耐というのはどの植物にも共通していそうだ。女性の着物に梅が単独であしらわれるのも、見た目と内面の芯の強さを両立する美しさを象徴しているのかもしれない。
竹取物語の成立年は明確ではないものの9世紀以前と考えられていて、国風文化よりも前の時代。宮殿も食文化も多分に大陸の影響を受けて色濃く反映されていただろう。そう考えると、その後日本で民衆に広まった「縁起の良さ」だけでなく、渡来の意味を加味して考える必要がありそうだ。あと、考慮するなら大和言葉の意味性。大体、同じような音を持つ単語は、それぞれに通じた意味をもっている。例えば、松というのは「待つ」や「祭る」と通じていると言われる。神との共食を松の下で行ったらしいのだけど、それが祭りのルーツという話だ。
松竹梅にまつわるイメージは、現代では前述のように表されるのだが、どうやらそれだけではないようだ。
「松」は、神との接点であり、不屈の品格、神聖性、節操などの象徴。「竹」は、高雅で気品に富んでいて、俗塵をきらう潔白の強さの象徴。これは、有名な竹林の七賢などに連なるイメージでもある。大和言葉ではタケルと通じていて、ある種の暴力性を秘めた強さも兼ね備えている。神聖な生命力は、節と節の間の空洞に神霊が宿っているからだと信じられていた。つまり、かぐや姫は「潔癖であり、高雅な気品がある神聖な生命力」というイメージをまとった状態で物語に登場しているということになる。
竹とはかぐや姫の暗喩。これを前提とするならば、竹取物語とはやはりかぐや姫を主人公にしたタイトルなのだ。つまり、かぐや姫を取りに来る人たちとの関わりを描いた物語。
そう言えば、かぐや姫に結婚を申し込む男たちは「俗物」ばっかりだ。驕りがあったり、強権的であったり、信心がなかったり、裏切ったりするような人々。かぐや姫が無理難題を押し付けたのは、はじめから彼らが不誠実であることを知っていて、それを悟らせるためのメッセージだったのかもしれない。などと勘ぐってしまう。なにせ、かぐや姫は天界の人。神と言い換えても良い存在だからね。
よく知らないことを、知らないなりに素人考えを巡らせてきた。全く頓珍漢なことを言っているのかもしれないけれど、ぼくにはこのかぐや姫という人物が結婚したくないばっかりに意地悪をしたようには思えないのだ。ただそれだけの物語なら、こんなに長く読みつがれないのではないかとも思う。もしそうならば、ぼくには読み解け無いが、当時の貴族ならば理解できる隠されたメッセージがあるのかもしれない。それはまるで暗号のようだけれど、暗号のように見えるそれこそが日本文学に通底するフォーマットのようにも思えるのだ。
今日も読んでいただきありがとうございます。たべものラジオは食文化を紐解くコンテンツなんだけど、和食とは何かを考えていくと、日本文化について考えなくちゃいけないんだよね。そうすると、どうしても古典文学に突き当たってしまう。そうなんだよ。食文化っていうのは、それぞれの文化的背景の延長上にあるんだ。もちろん、自然環境とか社会構造に左右されることもずいぶんと多いのだけれど、何を美しいと思うか、何をイケてると感じているか、がジャパンブランドの骨格なんじゃないかな。