恒常性バイアスという言葉を聞いたことがあるだろうか。平たく言えば、人間は変化を嫌うっていうはなし。慣性の法則みたいに、今まで通りが楽チンで、方向を変えるにはそれなりに大きな力が必要になるというわけだ。
普段の生活や仕事の中でも、考えてみれば恒常性バイアスが働いているのだなぁと感じることはいくらでもある。ルーティンになっている作業は、本当は見直したほうがもっと効率的なのかもしれないが、なかなか変えられないというのも小さな恒常性バイアスだろう。未だに「注文はファクスで」というのも、その一つかもしれない。
今までの方法に合わせた行動が設計されていて、もしFAXからメールや他のソフトウェアに変更したら、それに対応する人間の行動を変えなくちゃいけない。システムを変更するということは、人の行動を変えるということ。これに抵抗というか、面倒くささを感じるのが人という生き物の特性なのだろう。
変化をしたほうが良いというシチュエーションでは、恒常性バイアスは足かせのように抵抗を示す。けれども、恒常性バイアスのお陰で残ってきたことも有るような気がしているのだ。
家庭によって様々だけれど、毎日同じ朝食だという人が多いらしいと聞く。毎日トーストと牛乳だという人もいれば、ご飯と味噌汁だという人もいる。納豆を食べないと落ち着かないという友人すらもいる。不思議なことに、昼食や夕食と比べると朝食ほど固定的なものはない。
朝は時間がないからというのも理由のひとつだろうし、起き抜けに色々と思考を凝らすだけの知的労力をかけるのは面倒だろう。固定的であることが美徳のように語られることも有るけれど、もっともっと現実的な理由が大きいんじゃないかと思うんだ。それでいいし、それが良いと思う。
特別強い根拠を持っているわけではないのだけれど、「なんとなく」続いている「同じこと」が文化を継続させている面もありそうだと思う。そこに何かの目的があって文化を作っているのじゃなくて、もっと現実的な理由から出た行動が継続しているだけ。ただ、それを未来人が歴史を振り返ってみたら、特徴的な文化と呼べるような特異点に見えるということなのだろう。
なんとなく、そう本当になんとなく。深い意味もなく続いてきた慣習。これは、そう簡単には変わらない。変わらないのは恒常性バイアスが強く働いていると言える。変わるのが面倒くさいという根幹的な性質によって、新しい価値観がやってきたときにイノベーションが生まれるのじゃないかと思うのだ。
例えば、今まで見たこともない海外の料理が日本へ伝えられたとか、テクノロジーによって新しい食材が提案されたとか。そういうとき、一定の拒絶反応がおきる。数年前に昆虫食がメディアで取り上げられた時がそうだったかもしれない。あれこれと理屈を述べるのだけれど、結局のところ「気持ち悪い」という感情的なものが多かったわけだ。理論的に見えることのほとんどは、「昆虫を食べることの合理的な否定」には至っていない。だって、いままで食べてきていないから気持ち悪いじゃん。私も昆虫が苦手なので気持ちは大いにわかるのだけれど、これもまた一種の「変わりたくない」という力が働いていると見ることも出来そうだ。
ちょっと話が脱線してしまったので、元に戻そう。
変わらないということは、それだけ長く同じ動作を繰り返してきたということだ。数百年、千年と続いてきたことはその地域独自の文化と言ってもいい。これが、実に強力である。
世界的に砂糖が量産された。ミルクや肉が増えた。という世界の大きな食産業の潮流が生まれたことで、アメリカはあっという間に食事のスタイルを大きく変えた。そして、一人あたりの消費量が圧倒的に増えたのだ。もちろん、日本も大きな影響を受けたのだけれど、アメリカほどの消費量の増加には至らなかったのだ。
それはなぜか。煮物が甘すぎるのを嫌がったとか、そういうことなんじゃないだろうか。今までの和食に慣れ親しんでいて、それが当たり前の世界に生きていると、極端な甘さや肉の脂が気持ち悪く感じるのだ。そう、昆虫食を気持ち悪いと言ったのと同じ感覚である。
恒常性バイアスという概念を適用するのが適切なのかは知らない。ただ、「変わることに対する抵抗感」は、変化を必要とするときには足かせにもなるし、同時に私達が良きものと感じられる伝統を支えているのでもある。
社会の変革という嵐の中にいるぼくらは、柔軟に変わるしなやかさと、何にも揺るがないしっかりとした根っこを求められていると思うのだけれど、そのどちらも同じ性質に裏付けられているように思えるのである。
今日も読んでいただきありがとうございます。この話は、ホントに感覚的なものでうまく言語化出来た気がしないんだよね。なにか感じるものがあったらコメントもらえると嬉しい。一つの性質がいろんな現象を生み出しているっていうことだけは、意識しといた方が良いかもね。