現代社会は、なんとなく「農耕社会」だと捉えられている。スーパーに並ぶ野菜や肉は、どれも“生産された”ものだからだ。でも、実はそう単純でもない。山間部では自然に生えた山菜やキノコを採集するし、海では天然の魚介類を求めて漁を行っている。「農耕をベースに、ところどころ狩猟採集もあるハイブリット社会」というのが実態に近いだろう。
狩猟採集が中心だった頃、野山で山菜や木の実を取ったり、イノシシや魚を取って食料にしていた。木の実は比較的簡単に手に入れられるけれど、イノシシはなかなか手に入らなかっただろう。労力もかかるし、運も良くなければいけない。だから、イノシシが手に入ったときには、村のみんなと分け合って食べた。そもそも、みんなで協力して狩りをしただろうけど、もし自分一人でご馳走を手に入れたからと言って独占するのは村の平和を乱す行為になる。つまり、村の秩序をゆるがす“ちょっと危ない行為”だったのだろう。だから、当然のこととしてみんなに振る舞ったと考えられている。そして、これがおもてなしの原点だという人もいる。
モノを贈り合うというのは、集団の調和に繋がる。なにか特別なことをしなくても、たまたま手に入ったとか、作りすぎちゃったとか、そんな単純な理由でお裾分けするのだ。「もらったから返さなくちゃ」じゃなくて、「あるからあげる、ないときはもらう」。そんなふうにして、みんなが“融通”し合う社会というのは、貨幣経済が発達する“交換”社会以前には日常の風景だっただろう。
さて、そんな“振る舞い文化”が、現代では「接待」という名前でややこしいことになっている。本来、食事を振る舞って人をもてなす「接待」なんて、ごく自然なことだし、世界中で見られる文化なのだ。いったい何がいけないのか。
多分、接待そのものではなく、接待を受けたことを理由に便宜を図ることが問題視されているのだろう。「それは、公平ではない」と。お金を持っている人が豪勢な接待を行って自分に有利な条件を引き出す一方で、お金のない人はそれが出来ない。結局、実力に関係なく、金銭の多寡が仕事につながるのではないか。そういう不満が元になっている。
接待と呼ばれる食事会そのものは悪くない。その後の行為が悪い。そういうことになる。だいたい、これから一緒に仕事をする(かもしれない)相手と親睦を図ることが悪いはずがない。例えば議論をする中で、時には反対意見も出ることがあるだろう。そんなとききちんと反論出来る関係の方が良い。その方が議論が深まる。そのためには、互いにきちんとした人間関係を築いておく必要があるのだと思う。
だったら、べつに食事会である必要はないと言うかもしれない。それはその通りで、その辺で雑談するのでもいいし、スポーツを楽しむのでも良い。ただ、一緒に食事をするというのが親睦を深めるのには手っ取り早いのである。それがなぜかというのは、上手く説明できないのだが、科学的に証明されているらしい。だいたい、はるか昔から一緒に食べるということは仲間の証みたいなものなのだ。食卓というのは、信頼を育てる場所でもある。そういう、良いことだってちゃんとあるから、企業でも個人でも接待が文化として続いているのだ。それも世界中で。
接待そのものは悪いことではない。だから、接待と汚職の間に、ちゃんとした線引ができればそれだけの話。だけど、どうすればそれが実現できるのかがわからないのだ。ただ、良くないことをやめさせるために、良いことまで圧迫されているというのは、決して良い状態ではないだろう。
贈与関係、互酬関係というのは、人間の根源的な社会の仕組み。もしかしたら、これが民主主義と相性が悪いということなのだろうか。民主主義というのは、誰もが平等の権利を持っている。どんな金持ちも貧乏人も、選挙で投票できるのは1人1票と決まっている。これに対して、資本主義というのは金銭の偏りを認めるシステムだ。基本的な方向性は逆。これを相性が悪いと捉えるのか、それとも逆の性質を持つシステムでバランスを取ろうとしていると捉えるのか。資本主義社会は交換関係が基本だから、互酬関係とは違う気がするのだけど、それでも官民接待では問題が起きそうな感覚はある。さて、色々と考えを巡らせてきたけれど、今回はここらで筆を置こう。はっきりした答えは出ないけれど、「問い続けること」そのものが、じつは価値なんじゃないか──そんな気もしている。
今日も読んでいただきありがとうございます。ぼくらの社会は、いろんなモノを「悪い」にしてきたよね。麻薬、タバコ、混浴、酒、ギャンブル。肯定する気はないのだけれど、「悪い」を増やし続けた結果、ぼくらの未来はどうなるんだろう。と、ふと疑問に思ったんだよね。なんてことを言ったら誤解されるかもしれないけれど、ちょっとずつどこかに疑いの気持ちを持っておくことって、大切な思考なんじゃないかな。