家のすぐ外で、娘がグズりだした。一度へそを曲げて、動かないと決め込んだらちょっとやそっとでは動こうとしなくなる。妻が近くにいれば対応は違ったのだろうけど、あいにくそばにいるのは私だけ。下手に近づけば「父ちゃんはあっちに行って」と、さらに機嫌が悪くなる。
「頑固なところは誰に似たんだろうな」と思ってもみたけれど、その考えもすぐに空に溶けていった。
仕方がないので、ただじっと側にいることにした。
急ぎの仕事があるわけではなく、幸いなことに天気も良い。こうなれば持久戦だ。私もだんまりを決め込んだ。近くの林で木々が揺れるのを眺め、その向こうの空で小さな雲が形を変えながら流れていくのを見ていた。時折、鳥の鳴き声が聞こえてくる。そのたびに目を向けるのだけれど、いっこうに姿が見えない。姿が見えたところで、それが何という鳥なのかもわからないのだが。
いくらか時間が過ぎて、ふと斜め後ろに目をやると娘はじっと地面を見つめていた。何を見て何を感じているのだろう。日が昇り、影がさす。体が冷えるといけないと思って、そっと娘の方を抱いたところで「ツピツピツピ」と、特徴的な鳥の声が空の中を動いていった。そちらに目をやると、白い腹を見せて2羽のシジュウカラが追いかけっこをするように飛んでいくのが見えた。
ちゃんと覚えていたわけではなく、カタカナで鳴き声を知っていただけなのに、それがシジュウカラとわかるのは不思議だ。人間の発音どおりに鳴いているでもないのに、私にも誰かが表現したとおりに「ツピ」と聞こえて、この表現に当てはまるのはシジュウカラだと判断できた。オノマトペとは面白いものだ。
そんな思考が頭を巡った。
慌てて娘に視線を戻すと、娘も同じようにシジュウカラの姿を目で追っていた。
「おやつ食べようか。」
「うん。」
短い会話で、無言の時間は終わった。
なんてことのない日常。けれど、私にとっては日常ではない時間。
私の日常と言えば、多くの時間を情報に費やしている。
調理場に立っている間も、来客のない時間はポッドキャストで情報を入れている。休憩時間には、本を読んだりスマホを相手に調査を進める。その合間に、様々なメッセージが飛び込んできてスマホを震わせている。日常の中に、あまり隙間と呼べる時間がないのだ。
娘の癇癪をきっかけに生まれた隙間は、私にとっては非日常だった。
お互いに、全く別のものを見ていた。私は空を見上げ、娘はうつむいていた。けれども、やっぱり同じ世界を見ていたのだと思う。もし、私がスマホの画面を見ていたら、私だけ別の世界を見ていただろう。同じ世界を共有し、その片隅に一緒にいること。それだけで私はとても満足だったし、娘も同じようなことを感じていてくれたなら嬉しい。
世界を分かつもの
私だけじゃなく、現代人の多くは生活の隙間を埋め尽くして生きているかもしれない。それが悪いことだとは思わない。ただ、「私は隣りにいる人と同じ世界を見ているだろうか」という問いには、安易にイエスと言えないような気がしている。
昔は、同じ世界しか見ることが出来なかったはずだ。時々は思考を遊ばせて、上の空ということもあっただろう。会話中に「ちょっと聞いてるの?」と注意された経験は、今も昔も変わらない。それでも、空想世界へと旅立つきっかけは目の前にある現実だっただろうし、現実は隣の誰かと共有していたはずだ。
自分だけの世界を見るのは、自分だけの刺激から始まる。本や新聞、テレビ、携帯ゲーム、スマホ。おそらく通勤電車の中では、みんな違う世界を見ている。「それがどうした」と言われれば、返す言葉がない。ただなんとなく「違う世界に生きている感覚」が、少しずつ降り積もっているような気がする。それが、日常の大半を埋め尽くしてしまうと、寂しいと感じるかもしれないとも思う。
一緒にいる。同じ世界にいる。
「どんなに忙しくても夕食だけは家族一緒。テレビもスマホも禁止。」という家庭があると聞いた。一昔前ならば当たり前のことだったけれど、今ではそうでもないのかもしれない。
これは、同じ世界を生きるための装置なのだろう。
私達は、太古の昔から互いに同じ世界を見ようとしてきた。なぜかは分からない。生物学的には、社会性を持ったホモ・サピエンスという動物が社会を維持するための行為、ということになるのだろうか。物語を伝え、絵や彫刻を伝え、同じ歌を歌い、同じものを食べる。これらは、同じ世界を見たいという欲求が私達にあるからではないかと思っている。
家族という小さな集団は、同じものを食べることで同じ世界を見てきたのだろう。畑に行く父、家で家事をする母、庭で遊ぶ子ども。それぞれの場所で時間を過ごしたあとは、食を通じてそれぞれの場所が繋がっているということを体感する。ある種の儀式のような役割を果たしていたと考えられるだろう。
現代に目を戻そう。私達は食卓を囲んで同じ世界を見ているだろうか。お互いに、同じ世界を感じていると信じ合っているだろうか。そして、そのことを、言葉を捨てて受け入れられているだろうか。
私には、こうした「感覚」が、なにやらとても大切なもののように思えるのだけれど、ずばりと言葉にすることが出来ないのは少々歯がゆくもある。
今日も読んでいただきありがとうございます。
「ねぇ。これおいしいよ。」「うん。ホントだね。」
そういう些細な感覚の重なり合いって、とっても居心地がいいんだよね。