今日のエッセイ-たろう

お米食べてる?消費量が減ってるけど、それってどういうことなんだろう。 2025年4月22日

お米の値段が高いよね。ずいぶんと値上がりして、2倍を超えてしまった。米の栽培にかかるコストを考えると、今までが安すぎたのだとは思うけれど、ちゃんと米農家の収益に還元されているのだろうか。中間事業者でもコストが掛かっているから、そこが利益を上げちゃいけないなんてことはないのだけど、商流の川上から川下まで利益が分配されるといいなと思う。歴史を見ると、中間事業者や投機する人が利益を得ていて農民は儲からないという構図が多い。そういう意味で心配してしまう。

米こそが日本の伝統だ。と声高に言うつもりもないけれど、長い間お米に対する執着があって、大切にしてきたことは間違いない。とりあえず米さえあれば餓死することはない。というくらいに、米に頼って社会を繋いできた。

時々、米への依存度が高すぎてバグを起こしちゃうこともあった。東北地方は、もともと稲作に適した環境ではなかったから、米を中心にした食文化を形成しつつも麦や雑穀も重要な食料だった。貨幣経済が発展して、米本位制と呼ばれるくらいに米がが経済の軸になる。つまり、純粋な食べ物としての価値以外の価値が与えられると、江戸で売れる品種を中心に栽培するようになって、それが寒さに弱いものだから、ちょっとした冷夏でも飢饉が起きてしまった。で、米不足に乗じて利益を上げるために一部の米問屋が出荷制限をしたから、怒った人たちが米問屋を襲撃したわけだ。

せっかく政府が介入するなら、歴史上繰り返してきた課題を、再現しなように出来ないものだろうか。市場経済に過剰に介入するのは良くないのだろうけれど、やりようがある気がする。

今、米の価格が高騰していることで「米が足りない」「米を食べたい」という声があちこちで聞かれるようになった。けど、普段から言っていたのだったかしら。ぼくも弟も米が大好きで、ぼくらが家にいるかどうかで米の消費量が大きく変わるくらいだ。弟なんかは、炒飯をおかずに白米を食べることに疑念すら抱かない。さすがに極端かもしれないけれど、おいしいおかずに出会うとご飯が欲しくなるという人も多いはず。そこはパンやパスタじゃなくて、やっぱりご飯なのだ。

ただ、データを見るとお米の消費量が減っているのも事実。一人あたりの米の消費量が最大だったのは昭和37年(1962年)で、年間118.3kg。そこから順調に減り続けて令和3年(2021年)には、一人あたりの消費量は51.5kgとなる。簡単に言えば、マーケットが小さくなっている。ということは、生産者人口も減らさないと、一人あたりの利益も下がってしまうことになる。つまり、儲からない商材ということだ。食料自給率の低い日本でも「米だけは100%」と言うけれど、どうなんだろうな。

今でこそ人口は減少トレンドだけれど、少し前までは増加し続けていた。だから、シンプルに米以外のものを食べていたということが考えられる。

戦後の給食は長らくパン食が中心だったから、その影響もあってパンの消費量が増加したとも考えられる。ラーメンやパスタ、うどん蕎麦など、小麦を中心とした麺類を多く食べるようになったかもしれない。麺類は、昔はハレの食だったというのが影響しているのかどうかはわからないけれど、麺類が好きな人は多いイメージだ。あとは、おかずが豊富になったね。少ないおかずでご飯をたくさん食べるというのは、江戸庶民の特徴だったけど、その傾向は昭和時代もずっと続いていた感覚がある。今でも「3杯はイケる」なんて表現があるけど、ぼくらの世代でもリアルだったもんね。それが、おかずをたくさん食べられるようになったものだから、ご飯を食べる量が減ったとも考えられる。

年間消費量が118.3kgだとすると、一日あたり324g。毎食米を食べるとしたら、1食あたり108gということになる。生米1合で150gくらいだから、108gは0.7合ほど。炊いたご飯に換算すると、200〜250gになるのか。一般的に茶碗1杯で150g程度とされているから、どんぶり飯サイズということになる。これはなかなかの量だ。農林水産省が示している「一人当たりの消費量」が、全人口平均なのはかわからなかったのだけど、もしそうだとしたら、人によってはもっと食べていたということになる。

私の父が昭和24年生まれだから、昭和37年といえば中学1年生。食べ盛りの団塊世代は、たくさんのご飯を食べていたんだろうな。10代のうちは、どれだけ食べても足りないという人もいる。運動量が多いので、食べても食べても太らない。むしろ、たくさん食べないとやっていけない。ぼくもそうだった。

そういえば、明治時代はもっとたくさん米を食べていたという話を聞いたことがある。いや、実際の量は把握していないのだけれど、「陸軍に入ると1日6合も米が食べられて嬉しい」という社会だったらしい。1食600g以上。そのくらい、一日の活動量が多いのが普通だったということなのだろう。人口のほとんどが農民だったし、近代工業が発達しても肉体労働が中心だったわけだから、現代人よりも「よく食べ、よく働く」人たちだったかもしれない。

戦後、日本の復興の鍵は食料生産にあり、というのが政府の方針。戦中は我慢したし、終戦直後が不作だったこともあるし、とにかく国民みんなの食料を確保することが大事だった。この社会的風潮が続いたのが米の消費量の増加に繋がったかもしれない。白いご飯をお腹いっぱいに食べられることが幸せだった。

高度経済成長期に入って、米以外のもを食べるようになったし、働き方が徐々に変わっていって必要なカロリーも少なくなったし、相対的に「お米を食べて幸せ」という気持ちがしぼんでいった。お米があるのが当たり前になって、ありがたみが薄れたのかもしれない。詳しく調べたわけじゃなくて、ほとんど想像なんだけど、まぁだいたいこんなところだろうか。

じゃあ、どうしたら良いのだろう。安定的にご飯を食べられて、生産農家も潤う状況。マーケット規模がもう少し大きくて、1件あたりの生産性が高ければ良いのだろうか。たくさん作ってたくさん売れる。そうすれば、単価が下がっても利益が出る。工作機械や肥料、燃料のコストが高くなっているから、そう簡単ではないとは思うのだけど、もう少し消費量があっても良いよね。

平成3年のデータを、先ほどと同じように1日あたりの消費量に換算するとおよそ140g。つまり、朝昼晩の3食を合わせても1合に満たないということだ。ちょっと少ないように思えるのだけど、どうだろう。現代人にとって妥当な量なんだろうか。個人的には、ご飯が好きだし毎食食べたい方なんだけど、それでもやっぱり蕎麦もラーメンも食べたい。ときにはパンやパスタも食べる。あれこれ楽しもうと思うけど、1食で食べられる量はそんなに多くない。朝食にパンを食べたとすると、昼食と夕食で1合ということになれば1食あたり茶碗に1杯ずつ。平均値としては妥当な数値に思えなくもない。どうだろう。ちょっと少ないかな。

米以外のものを食べられない環境になったとしたら、足りなくなるかもしれない。小麦が高くて輸入できないとか、おかずを1品減らさなくちゃいけないとか。これは、日本全体の国際的な経済力も影響しそうだし、戦争や石油価格も影響するだろうし、海外の人口増加や経済力の成長も影響するだろうし。グローバル視点で見たときには、食料の取り合いみたいになってしまうということか。国内で見ると、米以外の食料生産量が減った場合も影響がありそう。

直感的な話だけど、他のものを食べられなくなったらその分のカロリーをお米で賄おうとする気がする。実際にはわからないけれど、米の消費量が減った原因が他のものをたくさんたべるようになったからだ、とするとお米と他の食料との間でも綱引きをしているのかもしれない。

こうやって見ていくと、国内消費量の減少を考えると、生産量調整もある程度は必要だったのかもしれないな。あまりに米が余ると、価格が暴落して生産者さんの収入が激減してしまう。日本の米の生産量が最大だったのは昭和45年(1970年)。一人当たり消費量が減少トレンドに入って数年が経過している。この状況で野放図に生産量を伸ばしていけば、近い将来米の生産システムが崩壊するかもしれないと考えたのかもしれない。余剰生産米を輸出するのだって、今よりもハードルが高かったのだろうか。

今は、米の生産量調整なんかしなくても、ホントなら輸出するという手段があるはず。それを促進しないのはなぜだろうな。ぼくの知らない事情があるのだろうけれど、近隣諸国では食糧不足が課題だというのだから、一定の輸出を行うこと自体は問題ない気がする。むしろ、生産量が追いついていない地域からは感謝されるかもしれない。人口増加地域のインドネシアやインド。それから食料自給率が圧倒的に低いシンガポールとか。経済格差があると、場合によっては日本の米が高すぎるということになるのかもしれないけど、それも徐々に緩和されてきているし、それこそ制度の工夫をしても良さそうなものだ。米だけのことを考えるとそんなふうに思える。

お米に対してありがたさを感じる。という感覚は薄れている気がするな。平成時代にも米不足が問題になって、一時的に海外から輸入したことがあった。このときも、今と同じようにお米に注目が集まった。で、やっぱり日本のご飯は美味しいな、と改めて評価が高まったんだよね。近代以前と違って、いわゆる米不足が問題になったときくらいしか世間の注目が集まらないのは、人の習性なのだろうな。普段から当たり前のように存在するものは、失ったときにありがたみを感じる。そういう生き物、ということか。

だとすると、記念日の設定というのは面白いかもしれない。母の日とか父の日があるから、節目を作って両親に感謝を伝えようと思う。なんとなく気恥ずかしいことでも、そういうことになっている、という条件設定があるおかげで言えることもあるでしょう。儀式や行事には、食がつきもの。母の日はカーネーションだけど、日本の行事の多くは行事食があるのが普通。まして、日本の食文化の中心である「米の記念日」を設定するのならば、米を食べるというのが自然だ。いつが良いかな。田植えの時期というのも良いな。いや、食べるということを考えたら新米が流通する秋が良いか。そういえば、天皇陛下は自ら田植えをして稲刈りをするのだった。新嘗祭は、その年の新米を神様と共食する祭事。こんなことを言ったら罰当たりかもしれないけれど、これちょうどいいかもね。日本中で新米を食べる日。ボジョレーヌーボーみたいに解禁日を設定してもいい。「今日は新嘗祭だから、新米だよ」「わーい」みたいなことにならないかな。

今日も読んでいただきありがとうございます。思いの外長くなってしまった。米の価格高騰について、消費と生産の視点でいろいろと考えてみたんだけど、なかなか一筋縄ではいかなそうだな。昔よりもずっと複雑になっているだろうしね。価格が上がるのは悪いことじゃないけど、ちょっと急激すぎるんだよなぁ。

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武藤 太郎

1978年 静岡県静岡市生まれ。掛川市在住。静岡大学教育学部附属島田中学校、島田高校卒。アメリカ、カルフォルニア州の大学留学。帰国後東京に移動し新宿でビックカメラや携帯販売のセールスを務める。お立ち台のトーク技術や接客技術の高さを認められ、秋葉原のヨドバシカメラのチーフにヘッドハンティングされる。結婚後、宮城県に移住し訪問販売業に従事したあと東京へ戻り、旧e-mobile(イーモバイル)(現在のソフトバンク Yモバイル)に移動。コールセンターの立ち上げの任を受け1年半足らずで5人の部署から200人を抱える部署まで成長。2014年、自分のやりたいことを実現させるため、実家、掛茶料理むとうへUターン。料理人の傍ら、たべものラジオのメインパーソナリティーを務める。2021年、代表取締役に就任。現在は静岡県掛川市観光協会副会長も務め、東海道宿駅会議やポートカケガワのレジデンスメンバー、あいさプロジェクトなどで活動している。

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