今、世界中で食糧不足が課題になりつつあるのだけれど、代替タンパクもその一部だろう。牛の排出するメタンガスが地球温暖化に大きな影響を与えているから、牛の育成数を調整しなくちゃならないし、結果として牛肉の供給量が減る。というような話もあるが、どうも歴史を俯瞰してみると、それは根本的な原因ではないのじゃないかと思うのだ。
維持すべきは、生物的多様性。
日本の歴史を遡れば、実は稲作が普及したことで飢饉が増えたとも言える。元々、日本列島には多くく分けて2つの食文化圏があった。関東以西は米が中心であり、東北は麦や雑穀が中心。それが、中世までの日本の姿。
近世初期になって、日本全体が稲作一色に染められていった。太閤検地で知られるように、土地面積がつぶさに調べられて、土地面積に対して課税されるようになったのだ。しかも、納税は米ということになった。だから、どこもかしこも「ひとつの田んぼで何年もコメを作る」ことが強制されることになったのである。
そもそも、稲作文化圏だった関東以西だって、同じ田んぼで毎年米を育てるなんてことはしていなかったのだ。海外で言うところの三圃式農業のように、人間が耕作地を移動していくのが当たり前の社会である。
遺跡を発掘すると、あちこちから水田の痕跡が見つかるので、つい「日本は水田だらけ」と思い込んでしまうけれど、休耕地もあったのだ。単年で見れば、稼働していた水田はそのうちの何割かであったはずだ。
興味深い比較分析がある。弥生時代の1反あたりの米の収量と明治時代のそれとを比較したものだ。弥生時代の1反あたりの米の収量は学者によって推定値に振れ幅はあるものの、120kg以上260kg以下だと考えられている。明治12年の調査によると、1反あたりの米の収量は180kg程度。これは記録があるので間違いない。比較してみると、単位面積当たりの生産効率は1000年以上の長きに渡ってほとんど向上していないのだ。
ぼくらは、江戸時代になって米の生産量が増えて商品作物を作るようになったと学習してきた。これは、単純に耕作面積が増えたからである。耕作面積が増えたのは、土地のローテーションをしなくなったからだし、新田開発が進んだからだ。
人々は土地に固定されるようになり、地力が落ちても、気候が変わっても、台風が来ても、とにかくそこから取れる米がなにより重要ということになった。なにしろ、土地面積がはっきりしている以上は、それに見合ったとされる米を納税しなくちゃならないのだ。江戸時代には農業技術が大きく発展したと言われているけれど、それはつまり、低下した地力を回復させるための技術なのだ。増産など考える余裕はない。
田んぼへ水を張るのが当たり前になったのも、肥料をやるようになったのも、コツコツと雑草をとるようになったのも、すべては近世に入ってからのことである。それまでは、水田もあっただろうし、土地をローテーションするシステムもあっただろう。それぞれの土地に見合った農耕が存在していたはずなのである。
さて、経済価値の基準が米になった時代。困ったのは東北地方である。元々、米は温かい気候で進化してきた植物だ。寒い地域だからといって全く育たないわけではないけれど、向いているとは言い難い。にも関わらず、米こそが市場価値ということになったのだから、なんとかして米の生産量を増やさなくてはならない。そこで、東北の各藩は新田開発を進めて、田んぼを増やしていった。そして、めでたく一大産地へと発展していったのだが、そのおかげで甚大な被害を被ることにもなった。飢饉である。
歴史の教科書では、やませや冷夏などの寒冷現象によって飢饉が発生したと書かれている。確かにそれは間違いないのだけれど、おそらく引き金でしかない。本質的には、麦や雑穀の生産を減らして、稲作に振り切ったことが問題なのだ。もし、米以外の生産量を減らさなければ、寒さに強い畑作穀物があるのだから、歴史の大災害レベルの飢饉は起きなかっただろうと考えられている。
気候も土壌も違う地域なのに、同じ食文化でくくってしまった結果の悲劇。そのようにも見える。これは、現代にもそのまま当てはまるのではないだろうか。かつてのように、政治による強制力が働いているわけではないけれど、結果として世界中で単一作物への依存度が高まっている。依存度が高ければ高いほど、その作物の生産量や分配に問題が起きた時、社会としての生命維持に大きな影響が発生してしまう。
いま肉といえば、ウシ、ブタ、ニワトリが圧倒的に需要が高い。穀物ならばトウモロコシ、ムギ、コメへの依存度が高い。しかも、トウモロコシは家畜の餌でさえもあるのだ。もし、アイルランドのジャガイモ飢饉のような疫病がトウモロコシで発生したら、あっという間に世界の食料システムは大混乱におちいる可能性もある。そのための対策は綿密に行われているはずだけれど、それとて絶対とは言い切れない。
しかし、なぜ人類はリスクが有るとわかっていても単一作物への依存傾向を強めてしまうのだろう。これは、簡単に経済だけの話ではないと思う。儲かるからというのが理由だというのならば、産業革命以前の社会で、単一作物への依存があった説明がつかないからだ。
生産効率を上げようと思うと、そうせざるを得ない。というのが、ひとつの解釈だろうか。クモザルの日常生活を観察すると、ランダムに食事をしているようでいて1週間の平均値を取ると、理想的な栄養バランスになるという。だが、クモザルは常にいろんなものを食べているわけではない。彼らにとって理想的な栄養バランスの食べ物であるイチジクが手に入るときは、そればかりを食べる。これは、多様な食生活が大切だし、生き物は本能的にバランスを取ろうとするものだとも言えるのだが、同時になるべく効率的に必要なエネルギーを摂取したいというプログラムが働いているとも言える。
人類も、なるべく時間をかけずに効率よく栄養を摂取したいとプログラムされているのだろう
か。つまり、本能的に「クモザルにとってのイチジクに該当する食料を求めている」ということなのだろうか。
そう言えば、いっとき「◯◯が体に良い」とブームになるとそれに人々の興味関心は集中するし、「◯◯だけダイエット」「◯◯健康法」というわかりやすいフレーズに求心される現象見られる。テレビやネットが発達していなくても、新聞や雑誌でも同じことが起きていたし、19世紀でも18世紀でも、もっともっと前からあったという。詳しいことはわからないが、「理想的なひとつ」を求めるのは、生き物としての本能なのだろうかと考えたくなってしまう。
とにかく、単一作物への依存は進んでいく。そのためにどんどん効率化していった結果、何が起きたか。それは、人口の増加だ。人口増加は、各地域の社会を維持するために必要だったし、他社会との競争においても重要だった。まぁ、そもそも種の繁栄は生き物の宿命と言えるのかもしれないが。とにかく、その反動として食料となる動植物の多様性は収斂傾向にあるわけだ。で、リスクが増大し続けている。かつては、一社会に過ぎなかった問題であったはずだが、サプライチェーンがグローバルに繋がった今、その影響は世界中に拡大している。グローバルサプライチェーンから切り離された地域にとっては、もしかしたら現代の食糧問題など「どこ吹く風」なのかもしれない。
最近、不耕起栽培や、これと同一の文脈で陸稲栽培が進められている。根粒菌が使われていたり、農薬が使われていたりと、最先端の科学知識が盛り込まれている。むろん、沈黙の春で描かれていたような農薬ではない。圧倒的に持続可能性の高い科学的知見に基づいたものだ。この取り組みは、先祖返りともいえるし、同時に江戸期の農業技術の延長でもあるといえる。
稲は、ほとんどの場合「水浸し」が好きじゃないのだ。サンサンと降り注ぐ太陽の元、キラキラと水面を輝かせる水田は、牧歌的で健康的なコメの栽培のようにも見えるが、それは私達の知っている種の話でしかない。およそ20種ほど確認されている稲の野生種のなかには、日陰の畑のほうが好ましいという稲もある。おそらく、日本で最も長く栽培されてきた稲は、畑作が多かっただろうという研究も進んでいるほどだ。
水を使わない稲の栽培は、先祖返りといえる。一方で、輪作をしない農耕は近世以降の農業技術の発展と同じ道の延長上にいる。言ってみれば、これまでの路線を複合して、現代社会に適応させようという試みである。さて、これがこれからの農耕にどんな未来を作り出していくのだろうか。
不耕起栽培の是非については、様々に議論が分かれる。メリットもデメリットも有る。それは、どのような気候、土壌、水利があって、どのような社会環境であるのか、などを勘案しなければ一概には言えないのだろう。本当は、畑ごとにケースバイケースで最適な農耕方法を探り出していくのが一番いいのじゃないか、と個人的には思うわけだが、どうなのだろうか。少しずつ時間を作って勉強してみたいところではある。
とにかく、ひとつ懸念することがあるとすれば、「◯◯健康法」みたいな風潮で単一の作物や単一の栽培方法が広がっていく現象である。どういうわけか、私達人類はこの道をずっと歩んできた。それに善悪はないのだろう。だが、都度問題が起きてきたということもまた、歴史の事実である。これに対して、どう向き合っていくのか。そろそろ、その手のことにも目を向けて道筋をつけていくというムーブメントが起きても良さそうなものである。
今日も読んでいただきありがとうございます。長くなったので分割しようかと思ったんだけど、まぁいい感じに切れるポイントがなかったからしょうがない。ダラダラと書いてしまった自分を反省しつつ、長文を読んでくださった皆さんに感謝。