和食とはなにか。伝統とはなにか。この問いは何度も繰り返してきたし、アカデミアの世界でも様々な形で言語化が試みられてきた。SKSのプログラムの中で、様々なテーマを語り合うラウンドテーブルが実施されたのだけれど、ぼくがモデレーターをつとめたグループでも、またこの問いに突き当たった。
ぼくは、少しばかりがこの問いとの付き合いが長い。だから、それなりに仮説を持っている。
一般的に、和食とはこうあるべきだ。というイメージがあるらしくて、そのイメージの中では「柔軟な変容が難しい」のだそうだ。けれども、逆にかなり柔軟だという人もいる。さて、この違いはどこからやってくるものなのだろうか。
日本の食文化は、基本的に「外来食品や食文化を受け入れ続けてきた」という歴史を持っている。これは感じるかどうかではなく、事実。比較的近い年代であれば、昭和のイタ飯ブーム、ファストフードがあるし、明治期の洋食受容もある。もっと古い時代ならば、奈良時代から平安時代の大饗料理もそうだし、精進料理も豆腐も蒟蒻も中国大陸から伝来したものだ。そういう意味ではとても柔軟だと思う。
むしろ、アメリカのほうが保守的であると感じることも多い。
機会があったら多国籍チームで海外旅行に行って食事に出かけるといい。それぞれに好きな店でランチをして、あとで合流しようというのだ。日本人は高確率で、現地の食事を食べようと言い出す。せっかくだからね。それに対して、アメリカ人のうち何割かは慣れ親しんだハンバーガーを食べようする。
もちろん、かなりの偏見が強い話だけれど、実際にそういう傾向があると言われている。
けっこうなんでも外来の食文化を受け入れてしまう。食材だって受け入れる。だからこそ、カレーライスもラーメンも、いまや海外から見たら和食である。そういえば、ロンドンでは、カツカレーが和食の代表格のひとつとして見られているそうだ。かつてはどちらもイギリスから受け取った食文化だと思うと、とても面白い。
これほどまでに食に対して柔軟なのに、あまり変化がないように感じられてしまう。それはなぜか。ぼくは、プラットフォームにその答えがあると思っている。
では、プラットフォームとはなにかといえば、一汁三菜、どんぶりもの、茶懐石や会席料理がそうだ。「型」と言い換えてもいいのだけれど、これは揺るがないのである。これまでの和食の変遷を見ていると、外来の食品や食文化は、概ねこの「型」の中に取り込まれることでローカライズされている様に見える。だから、フレンチでもイタリアンでもイングリッシュでもない「洋食」というものが誕生したのだろう。これもまた、洋食という型なのだ。
食材や料理ばかりを注視しすぎると、「◯◯らしさ」を見失うような気がする。おそらく世界各地に独自の「型」があって、その「型」と「食材」や「調理方法」などが組み合わさっているのだ。
今、和食は世界的に注目を浴びているけれど、その多くは「健康的」というイメージだったり、「発酵」という技術や「スシ、ラーメン」というわかりやすい料理だったりする。それはそれで日本らしさの現れであることは間違いないのだけれど、別の側面にも目を向けても良いのではないだろうか。なぜなら、「型」は、何を良いと感じるかという「美意識」が反映されるし、生活習慣も現れている。それらは、気候や地質学的な環境の影響、思想などが組み込まれているはず。これらをパッケージとして、世界に発信することも次のステップとして考えてもよいのではないだろうか。
今日も読んでいただきありがとうございます。
もし、ぼくがフードテックの文脈で「型」を活用するならばどうするか。と質問があった。ぱっと思いつくのは生成AIによるレシピの提案。一般的にはシンプルなレシピになるわけだけれど、それだけでなく料理の組み合わせや思想まで反映したもの。そうだな。ディープラーニングの素材としてレシピだけでなく、もっと文化的なものをたくさん使うというはどうだろう。古今和歌集を始めとした勅撰和歌集や、源氏物語、歌舞伎に文楽。それから落語もいいな。とにかく、「型」を形成したあらゆる要素を導入してみたい。そうしたら、もしかしたら「日本らしさ」を体現した料理を提案してくれるかもしれないじゃない。