おとなになってからの学びはとても面白い。あれほど退屈に感じていたはずの歴史の授業も、今ならずっと楽しめる気がしている。きっと、似たような感覚を持っている人も多いだろう。ジャンルを問わず、どういうわけか大人になってからの学びは、エンタメとして面白いのだ。
それはなぜだろう。
ぼくにとっては退屈だと感じた10代の頃の歴史の授業も、きっと別の誰かは楽しいと感じていたはずだ。当時のことを振り返ってみると、化学や物理の時間は退屈だと感じたことがない。
そういえば、高校生の頃の授業で地理は楽しかった。3年生の終わり頃、みんな大学受験が終わったあとのことである。もう消化試合のようなもので、まわりの同級生は別のテキストを開いて勉強していたり、イビキをかかないようにスヤスヤと器用に寝るばかりだった。けれども、これがとにかく面白い。受験とは関係ないとなったら、先生も地理学の面白い部分だけを好きなだけ喋るし、それに感化されたぼくも、図書室の本を借りて読むくらいにはなった。
たぶん、面白いかどうかの分岐は、能動的に学んでいるかどうかだ。自分の意志で関わっている物事は、納得感が大きいように思う。
日常にあるちょっとした疑問。普段は疑問にも思っていないけれど、言われてみれば不思議だと思えること。そういうのは、あれこれ悩まなくても「不思議だなぁ」と感じる事ができる。自分なりの問いがあるという状態だ。ちょっと考えてみて「もしかしたらこういうことかもしれない」と仮説を立ててみる。で、調べたり実験したりして、仮説を確かめると、「そういうことか。なるほどなぁ」と納得する。
そうなんだ。この「納得感」が大切なんだ。
若いときに先輩や上司に言われたことも、何年か後で「そういうことか」と腑に落ちることがある。これは知識に「納得感」が付いてきたということ。よく、頭でっかちと言われている人は、納得感を得るところまで至っていなくて、それを見透かされているのだろう。まぁ、面と向かって頭でっかちと言われることは無いだろうから、常に自分がそうなっていないかと観察する必要があるのだが。
「見て見て〜。ここを押すと電気がつくんだよ!」と嬉しそうに教えてくれる幼い子どもは、その納得感の気持ちよさを伝えたいのだ。
お母さんがやっていたことを見て、何をすればどうなるかを学ぶ。自分でやってみてもうまくいかなかったけれど、何度か試して出来るようになる。抽象化すると、気づきを得て、問いを立て、仮説を立て、試してみるというプロセス。うまくいかなくて何度も繰り返すこともあるだろうが、その体験があるからこそ納得感がある。
つまり、だ。納得するために最も必要なのは、答えではなくプロセスとうことだ。
子育てや学習指導において、大人が先回りして答えを用意するのは良い策とは言えない。と聞いたことがある。経験的に、ぼくもそうだろうとおもっているのだけれど、それは「納得に必要なプロセスを奪う行為だから」なのであろう。
大人から見れば、じれったく感じるし、もしかしたら時間が勿体ないと考えてしまうかもしれない。けれども、実はその時間が当人にとって重要なのだ。その時間を奪ってはならない。と、肝に銘じておくことにしよう。
今日も読んでいただきありがとうございます。気づく、仮説を立てる、調べる。このステップは、実はたべものラジオの構成と同じである。と今気がついた。考えてみれば当たり前なんだよ。ぼくがそのプロセスで考えているから、番組がそうなっちゃうんだね。