今日のエッセイ-たろう

憧れと愛でしか動かない投資もある。 2025年7月22日

投資って、ふつうはリターンがあるからするものだ。でも、世の中には「憧れや愛でしか動かない投資」もある。それは、何十年もかけてイノベーションに取り組むようなこと。ずっと先の誰かのためにやるような話かもしれない。

そんなことを考えるようになったのは、子どもが生まれてから。「自分の人生が終わったあとの世界」にも、少しだけ目が向くようになった。その先に続いていく時間があるのだと実感したからだ。

イノベーションとは、新しい商品や製造方法とか、組織の仕組みを生み出すことを言う。これが起きると、経済的に発展するというのが、よく知られた話。だからこそ、多くの起業家はイノベーションをもたらあすものとしてあり続けようとするわけだ。

じゃあ、イノベーションってどうやったら起きるのだろう。シュンペーターのイノベーション理論を深く読み解けばわかるのかもしれないけれど、これがなかなか難しい。どうやら、新しい結合と長期的な研究が鍵らしい。

新しい結合というと、別のジャンルに点在しているアイデアを結合させるイメージだろうか。異分野である程度定着したアイデアを取り入れて、自分の商品や組織に取り入れる。

例えば自動車の量産と低価格化を実現したフォードだ。フォードは、食品工場で使われていたライン式の生産方式を取り入れて応用した。この方式を確立させたのはケチャップで有名なハインツ。

音楽再生機器と携帯電話を統合したアイフォンが世界を大きく変えたのは、多くの人が体験したことである。

だけど、これらの開発にかかった期間やコストはどのくらいかかったのだろう。Apple社は既にiPodを販売していたとは言え、i-phoneの前身となるiPodTouchを生み出すまでに研究開発に時間と労力がかかったのじゃないかと思う。フォードにしても、工場設備を作り直さなくちゃいけないし、工程のデザインや、従業員の教育、更には増産した自動車の販売スキームもこうちくしなくちゃならない。それには、やっぱりコストも掛かるし時間だってかかるはずだ。もしかしたら、フォードもアップルも、この時点で大企業と呼べるほどの企業としての体力があったから出来たことなのかもしれない。だとすると、スタートアップには難しいということになってしまう。

シュンペーターが言うには、イノベーションには長期的な視点が必要なのだそうだ。人間の寿命よりも長い時間をかけてでも研究開発を続けていくこと。そこにコミットして繰り返しチャレンジしていくこと。一見して経済合理性とは相性が悪そうな発想だけれど、孫子の代へとバトンを引き継いでいく姿勢が必要なのだという。だからこそ、いつ形になるかわからないものに投資し続けることが出来るのだと。

そう言われてみれば、歴史上には世代を超えたバトンタッチがいくつも生まれている。名を知られることのないままに消えていった数々の挑戦があって、また誰かが影響を受けて未来へと引き継いでいく。バトンを渡すつもりはなかっただろうけれど、結果として引き継がれ続けていくという事例も多い。こうした無意識のバトンタッチもあるが、意識的なものもある。古い時代の為政者たちは、のちの歴史書にどう書かれるかを気にしている様子が見られる。死んだあとのことなんか気にしてもしょうがないとも思えるのだけれど、一方でそれほど長い時間軸で物事を見ていたともいえる。

当人が意識していたかどうかに関わらず、歴史の高みに経って観察してみれば、かなり大きな資本が投下されていたように見える。これは、それほどの資本投下を行う実力、長期視点での投資をしようという意識の組み合わせが発動したからだろう。

とすると、その意識はどこからやってくるのだろうか。生きている間に成果を求めるのが普通の感覚だろうし、極論すれば自分がいなくなった世界のことなんかは気にしないという人がいても不思議はない。それでも超長期の投資を行うのは、子どもがいるからだろう、とシュンペーターは言う。そう言われてみると、ぼくも子どもが生まれてから社会を見る視点が変わった気がするし、出来るだけ生きやすい世界を残せるようにしたいと思うようになった。経済合理性を担保しているのが、子どもへの愛というのが興味深い。結婚や子育ては自由を制限されるし、負担も大きい。ビジネスそのものだけを考えるならば、独り身のままいるのが合理的だ。という論調があるけれど、長期視野の根拠は合理性ではなく愛だと。

愛が長期投資を促すことになるのなら、別の対象への愛でも成り立ちそうだ。愛の深さは変わるかもしれないけれど、例えば「家」、「郷土」、「民族」などはどうだろう。日本では古くから血縁関係が途切れたとしても「家」を守ることが大切だったし、太宰府天満宮が行ってきた取り組みは数世代にわたっている。世界史に登場する華僑やユダヤコミュニティは民族意識が高いことで知られている。

今気がついたのだけど、これって「先人たちが私達へ残してくれたもの」を受け取っているからかもしれないな。子どもへの愛情とは異なると思うけれど、先人への感謝があるから自分たちもそのように振る舞いたいという気持ちが湧く。もしそうだとすれば、ぼくらが何を受け取っているのかを再認識することが大切だ。目の前にあるものが「当たり前」じゃないことに、ちゃんと気づいておくこと。そうしたら、尊敬と憧れみたいな気持ちが湧いてきて、時代を未来へとつなぐ原動力になるのかもしれない。

今日も読んでいただきありがとうございます。いつ成果が現れるかはわからないけれど、きっと良いはずだと「信じられること」に投資し続ける。理想なんだけど、現実社会を見ると難しそうな気もする。共創の意識が広まってきて新結合は生まれてきているし、スタートアップへも投資が集まる流れはある。あとは「何十年先」とか「社会全体」みたいな、長くて広いスケールの視点を持てるかどうか。あ、国家って、こういう視点を持ちやすいのかも。なんて、ふと思ってしまった。

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武藤 太郎

1978年 静岡県静岡市生まれ。掛川市在住。静岡大学教育学部附属島田中学校、島田高校卒。アメリカ留学。帰国後東京にて携帯電話などモバイル通信のセールスに従事。2014年、家業である掛茶料理むとうへ入社。料理人の傍ら、たべものラジオのメインパーソナリティーを務め、食を通じて社会や歴史を紐解き食の未来を考えるヒントを提示している。2021年、同社代表取締役に就任。現在は静岡県掛川市観光協会副会長も務め、東海道宿駅会議やポートカケガワのレジデンスメンバー、あいさプロジェクトなど、食だけでなく観光事業にも積極的に関わっている

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