料理人が作る料理は、いつも全力だ。それが商売なのだし、社会的存在意義なのだから当然と言えば当然。自宅で出来ないことをやるからこそ、そこに価値が生まれる。だからこそ料理人がいる。
じゃあ、家庭のご飯はどうなのだ。というと、ぼくは全力でやるべきことではないのだと思っている。日常生活でやるべきことはたくさんある。お金を稼ぐ仕事以外にも、家庭を維持するためにやるべきことはたくさんあって、掃除も選択もみんな大事なこと。友達や親戚との付き合いだってある。調理の他にやるべきことがたくさんあるからこそ、エネルギーを投下するバランスが大切なのだと思う。
毎日の調理は5〜6割くらいの力で出来ないと続かない。と誰かが言っていたけれど、それが限界だろうと思うのだ。5割の力を費やしたら、残りの5割で他のことをなさなければならない。となると、5割でも多いくらいだ。
ずっと昔は、食べるという行為自体が生活の中心にあった。だから、結果として5割くらいの力を注がなければならなかったかもしれない。それでも、調理器具や加工食品が発達する前には、できることに限界があった。それが、今ではもっと多くの時間を調理以外に時間を費やすことが出来るのだ。炊飯器のお陰で薪で米を炊く必要もないし、味噌汁を作るにしても手軽に豆腐や油揚げを使うことが出来る。かつては、味噌をすり潰したり米をつくところから始めなけばならなかったのだ。
行為を簡便にする。これが食品産業がこれまでに歩んできたメインストリームである。調理を含めた生活のすべてを書き出したときに、どういうバランスが良いかを考え続けた結果、調理だけでなく掃除や洗濯を簡便にしてきた。テクノロジーはそのような方向性で発展してきたのだと言える。
家庭における食事にかける準備時間は、いつでも相対的。他にやることがたくさんあるからこそ、毎回100%の力を注ぐわけにはいかない。これが基本だと思うのだ。日本の文化ではこれをケの食事と称してきた。現代の忙しい人なら2割程度だろうか。食に関心がない人ならばもっと少ないかもしれない。食べたり調理したりすることが好きな人でも、場合によっては時間をかけられないこともあるだろう。特に朝食などは顕著で、なるべく時間や手間を掛けないことを軸に考える人のほうが多いのじゃないだろうかと思う。
食とその文化の発展には、こうした日常の食事とハレの食事との2つが関わっている。言い換えると、分割して考えなければならない。儀礼で使われるような食と、毎日繰り返される日常の食。これらを切り分けて捉えることは、食産業の味蕾を考えるうえでも重要なポイントになるのだろうと思っている。
「食」という言葉に集約されることで、その業界は一言にまとめられがちだ。中国もインドもひとつの国であり文化であると捉えられるが、ヨーロッパと同じくらいの規模があるというのと似ている。イギリスとドイツ、あるいはフランスなどがそれぞれに異なる文化を持つように、中国とかインドという言葉でその文化をまとめて捉えることは困難なのだ。食産業も同様で、様々なシチュエーションに合わせた対応が必要なのだろう。
これまでの食品産業は、圧倒的に簡便さに特化してきた。そのおかげもあって、ぼくらは栄養摂取や食の安全性に関して、あまり気を使わなくても良くなった。だからこそ、社会的価値や物語、調理という行為などに価値を感じることが出来る。むしろ、食に対する価値を感じるのはそこから先ということになっているかもしれない。マズローの欲求5段階説に当てはめれば、社会劇欲求より高次元のものにこそ注目が出来る社会であると言える。
こうした構造的理解が正しいかどうかはわからない。ただ、構造を把握することそのものが食品産業の味蕾を考えるうえで、ポイントになるだろうとは思う。
今日も読んでいただきありがとうございます。美味しいことや美しいことを論じられるというのは、とても豊かなことだ。ましてや、食の歴史を紐解いてその奥行に豊潤さを感じられるのは贅沢の極みだと言える。お金では買えない豊かな情緒を、人間らしさの一環として再生し続けられるような社会であったらと願っている。