今日のエッセイ-たろう

日本人は、ガストロノミーを無自覚に実践している。 2025年8月7日

ガストロノミーって知ってる?たぶん、多くの人は「なんか聞いたことが有るような、無いような…」という感じじゃないかな。あんまり浸透していないように見えるのは、聞き慣れないカタカナだからなのか。それとも、別の理由があるのだろうか。などと考えていて、はたと思い当たったことが有る。

もしかしたら、「ガストロノミー」って日本人にとっては「あえて語るまでもないこと」なのかもしれない。そんな気がしたのだ。

ガストロノミーっていうのは、「食に関する学問」のこと。一部の人にはフランス語由来の概念で「美食学」とか「美食術」として認知されている。元々は古代ギリシア語で消化器を意味する「ガストロス」と、学問を意味する「ノモス」を組みあせた合成語。19世紀に発表されたフランスの「美味礼賛」という書籍で広まったそうだ。

たとえば、風土や歴史、暮らしの中から生まれた「食」を、ちゃんと理解して味わうこと。
生産現場から食卓までの背景を想像して食べること。
食べることで、人と自然の営みに思いを馳せること。
……そんな姿勢のことを「ガストロノミー」と呼ぶらしい。

まず知ること、そして理解すること。最後に、自分の身体で味わうこと。
この流れが大切だという。

内容を知ってみれば、拍子抜けするほど“ふつうのこと”にも思える。だからこそ、日本人にとっては「わざわざ語るまでもない」と感じられるのかもしれない。

日本には古くから「禅の思想」が、一般生活に根付いている。
足るを知る。平常心。日々是好日。掃除や片づけに意識を向けることを大切にする観念も禅の思想に由来している。最も日本の食文化に強い影響を与えたのは、「小さな事象に集約された世界」という考え方じゃないかと思う。目の前の出来事や物は、世界のいろんなものとつながっているという考え方だ。

例えば、ご飯。稲が育つのは、雨や土の恵みがあるからだ。直接降り注ぐ雨もあるだろうし、遠い山の雪解け水が小川を伝ってたどり着いたのかもしれない。小川には草花が生えているだろうし、小さな虫や魚が住んでいるだろう。そうした水をたたえた水田は、誰かが耕し整えたもので、稲が穂を垂れるまで見守り手をかけてきたもの。刈り取り、脱穀し、運ばれる。そして、誰かの手で丁寧に研がれ、炊かれ、また誰かが作ってくれた飯茶碗にふんわりと盛られる。そうして、ぼくの前に美しい白いご飯がある。

一つ一つの食事に感謝の気持をもって、食材を無駄にせず、味わって食事をすること。これを禅の実践だと考えるのだ。

個人的な解釈を加えると、食事を得た自分もまた世界とつながっていると考えている。ご飯を通じて得た命は、また別のなにかや誰かのために使う。ぼくの作ったものが、またどこかの世界に通じていって、縁を結ぶ。そういう循環の中で生きていることを、しっかりと想像して食事を味わう。思いを巡らせたうえで“行動”し、“感じる”ことが大切なのだと思う。

おそらく、日本のモノづくりの特徴である「微に入り細を穿つ徹底した追求」も、この思想がどこかに流れているのじゃないだろうか。

この思想を言語で体系的に理解している人は、現代人では少ない気がする。だけど、長い年月をかけていつのまにか「生活習慣」の中に溶け込んでいるのだ。想像でしかないけれど、ぼくの拙い文章でも「感覚的に」共感する人もいるのではないかと思っている。もしそうならば、それこそが生活習慣に溶け込んでいる証でも有ると思う。

こうして振り返ってみると、「ガストロノミー」って、禅の思想と通じるところがあるように見える。あえて、「美食学」という名前をつけることはしていないけれど、1000年も前からすでに思想として入り込んでいたのだ。だとしたら、ガストロノミーの内容を理解した時に、どこかに「なにを今さら」という小さな反発のようなものが芽生えるのかもしれない。

普段は実践していないけれど、そこはかとなく知っている概念。これが日本のガストロノミーの実態ではないか、というのが今回の仮説だ。そして、この感覚は日本人の大多数に眠っているものでもあるだろう。

表面的には「知らない」という人のほうが多数を占めると思うのだけれど、潜在的には多数を占める思想。もしそうならば、この眠った「日本的なるもの」を呼び起こせば、日本はガストロノミーに関して、最も歴史があり、思想が根付いた食文化大国ということになる。

フランスのガストロノミーは「美味礼賛」が発表されたのは1825年。一方で、日本には500年以上も前、食に向き合う姿勢」が既にあったのだ。日本の精進料理の心得を記した「典座教訓」は、1237年に道元によって記されている。さらに、食べる心構えを説いた「赴粥飯法」は9年後の1246年にまとめられた。鎌倉時代のことである。
そしてさらに大切なことは、この500年以上の間に、禅宗の思想は仏道を通じて「日常生活に溶け込んでいった」こと。生活習慣に溶け込んだ思想は、身体知を伴っている。ということは、なまじっか書籍だけで学ぶよりも、感覚で掴みやすい。
これらが土台となって日本の食文化を支えてきた。これは、そう簡単に真似できるものではない。

今、食というジャンルで「日本の食文化」は色んな国から注目を集めている。今のところ、そのヘルシーさだったり、発酵食品などの特定ジャンルが目立っているのだけれど、やがてその大本に有る「食に対する姿勢」が注目の対象になるだろうと思う。
ぼくらは、そのときに合わせて声高に叫ぶ必要はない。素知らぬ顔で「そんなのアタリマエだよ。日常生活でやっているもの」と呟くだけだ。今は、眠っている潜在的な「日本的な食に対する姿勢」を、改めて日常生活に取り込み直すのが良いのじゃないだろうか。そして、ちょっと誇らしげに「食文化大国」に胸を張れば良い。

今日も読んでいただきありがとうございます。学問として学ぶのも大切だけど、思想体系が潜在的に日常に溶け込んでいるっていうのも凄いことだと思うんだよね。
ぼくらは、気づかぬうちにもう実践している。でも、ちょっとだけ意識をむけてみるだけで、一杯のご飯の向こうに見えてくる世界がある。そしてその風景を、言葉にして伝えていくこと。それが、未来の日本に「おいしい食事」を支え続けるのだろう。

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武藤 太郎

1978年 静岡県静岡市生まれ。掛川市在住。静岡大学教育学部附属島田中学校、島田高校卒。アメリカ留学。帰国後東京にて携帯電話などモバイル通信のセールスに従事。2014年、家業である掛茶料理むとうへ入社。料理人の傍ら、たべものラジオのメインパーソナリティーを務め、食を通じて社会や歴史を紐解き食の未来を考えるヒントを提示している。2021年、同社代表取締役に就任。現在は静岡県掛川市観光協会副会長も務め、東海道宿駅会議やポートカケガワのレジデンスメンバー、あいさプロジェクトなど、食だけでなく観光事業にも積極的に関わっている

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