先日、かなり久しぶりに「さかなセンター」に行った。漁港から近くて、新鮮な魚介類が手に入るはずの施設だ。建物は古いが、いくつもの魚屋が立ち並び、威勢の良い呼び声が飛び交っている。狭い通路を人々が行き交う様子は、まるで活気のある市場…だけど、ぼくはガッカリして、なにも買わずにさかなセンターをあとにしたのだった。
なぜ、ぼくがガッカリしたのか。
それは、質が悪く、値段が高く、売り方が誠実ではなかったからだ。
魚屋で魚を売っていて、ものが良くなければ話にならないでしょう。それも管理が悪いければなお悪い。まだ半分以上凍ったままのマグロが陳列されていたのだけど、場内はほとんど冷房も効いていなくて常温に近い状態。魚の解凍方法としては品質の劣化を招くやり方だ。業者専門の市場では見られない光景である。
次に、値段が高いこと。その場にいた客ほとんどは市場の相場なんてわからないかもしれない。が、ぼくは違う。ざっと一通り眺めて回った感じだと、2割から5割ほど割高な価格設定になっていると感じた。事情はあるかもしれないが、他のスーパーと比べても高いのは、少々考えものである。
そして、売り声である。表示価格1500円のものを2つセットで2000円と呼びかける。随分とお得なように聞こえる。ただ、1つあたりの適当な価格は800円〜1000円と言ったところだろうと思う。さっと眺めただけだったし、ぼくの目利きが正確だという保証はどこにもない。けど、普段購入しているものと比べれば、せいぜいその程度だろうと察することは出来る。
今回は、訪問した時間が悪かっただけなのかもしれない。市場が最も賑わうのは早朝なのだけれど、この日は昼過ぎだった。もっと朝早くに訪れていたら違ったのかもしれない。と、思いたかった。
でも、今思い返して事情を加味しても、やっぱりがっかりするには十分な内容である。というのも、以前訪れたときには、どれも無かったことだからだ。
朝は、飲食店や小売業の人たちが仕入れに訪れる。少し遅い時間、8時を過ぎる頃になると一般の人達がやってくるようになり、別の盛り上がりを見せた。それが、かつてのさかなセンターである。
今は、その本来の姿を見ることはできなくなり、「観光地化してしまった」と地元の人達は言う。地域住民が訪れることはほとんど無いそうだ。
そもそも「観光地化」は悪いことではないはずだ。にも関わらず、日本各地で起きている「観光地化」はよく思われていないことが多い。その理由を考えてみたい。
観光地化を簡単に言ってしまえば「魅力を磨き上げること」だろう。日常生活の一部であった場所や慣習は、他所の人から見ればとても興味深く映る。そこでしか味わえない魅力があるのだ。魅力を伸ばし、滞在時の快適さを整え、発信する。雑に言えばこんなところか。
だから、観光地化の最初のステップは「魅力とはなにか」を明確にすることだ。さかなセンターの場合は、「市場に足を踏み入れるという非日常」「新鮮で質の高い魚介類」「価格の安さ」といったところだろうか。一端、さかなセンターの魅力を上記の3つということに設定して考えてみよう。
「市場という非日常の体験」
これは、何割かは達成している。施設の雰囲気は、確かに市場であった頃のままである。活気ある売り声も、それっぽく聞こえる。が見かけだけだ。本来なら、その日あがった魚を捌いている人がいて、それをパッキングしている人がいて、店先に並べたり伝票を描いたり、「従来の業務で忙しい」のである。ほとんどの店員が通路に向かって呼び込みをしている姿など、市場で見ることはない。
以前、市場を見学したいというので、知人を市場に連れて行ったことがある。彼らに、なにが面白かったかと聞けば、「市場にいる人達の働く姿」と答えが返ってくる。そこかしこに氷がこぼれていて、タタキの床はしっとりと濡れている。セカセカとした長靴の音と、発泡スチロールがこすれる音は市場のBGMとなっている。これらは、「魚市場として働く人」が巻き起こす現象だ。
「品質の高さ」
港町である。という事実は、それだけで魅力的だ。港の近くにあるマーケットや飲食店では、新鮮な魚介類を楽しめるものだと思い込んでしまう。で、実際良いものが手に入ることが多い。それは、魚屋が魚屋として誠実だからだろう。
以前、さかなセンターで桜えびを買ったときもそうだった。500円より700円のほうが明らかに美味い。値段なりの品質と誠実さがあったのだ。温度管理も徹底していて、「魚を魚として扱う技」がそこにはあった。
質の違いがわかっているからこそ、価格を変えて販売するのだ。それは、別の店の商品と比べてどの程度違うかを知っている「魚の専門家」としての矜持が見られた。
そういえば、もう一つ気になったことがある。照明だ。先日訪れたときには、平置きの冷蔵庫の上に吊り下げられた照明は、オレンジ色から赤に近い光を発していた。その方が、マグロの赤い色が映えるからだ。以前も白熱球を使っている店はあったけれど、それはまだLEDが登場するより前のこと。それに、多くは蛍光灯を使用していた。見せかけの色味は、あとになって信用を損なうと知っていたから。それが、地元に根付いた商売なのだ。
「価格の安さ」
本来、業者向け市場というのは、卸売である。だから、小売店に比べて価格が安い。その代わりに購買単位が大きくなるわけだ。それに、一般消費者が訪れるには早すぎる時間帯が営業の中心になる。言ってみれば、安さは「まとめ買い」「早朝」とのトレードオフの関係にある。
一般消費者が購入するとなれば、魚屋も小売をしてくれることもある。その場合には、業者とは違う価格になったり、半端なロットを使ったりと工夫してくれていたのだろう。消費者も、それはそれとして受け止めていた。便利さと引き換えにした安さなのだ。お互いの理解があって、成立する取引である。
こうして整理してみると、現状のさかなセンターで享受できるのは「市場という非日常の劣化版コピー」、言い換えれば「市場というコスプレ」である。これでは、早晩客足が遠のくことになるだろう。新たな別の魅力を生み出すことができれば話は変わるだろうが、今のところ難しそうだ。さかなセンターの中には、かつてはなかったほどたくさんの飲食店が登場していた。ほとんどは「鮮魚」を売りにしたものである。口コミを見ればわかるが、あまり評判はよろしく無い。経営している隣の魚屋の状況を考えれば、当然「値段だけ一流」の食事ということになる。
さて、「さかなセンターの魅力とはなにか」について、ぼくなりに考察してみたわけだが、実は他の分野でも同じように考えることが出来るのではないかと思っている。
例えば、昨今、外国人観光客が殺到している京都観光だ。よく京都は「オーバーツーリズム」だと言っている人がいるけれど、それはない。「オーバーツーリズム」とは、本来は住民数に比べて観光客が多すぎる状態のこと。京都は、数字だけ見ればそこまでではない。提供者側がその気になれば十分に観光地としての価値を持続的に提供することは出来るだろう。京都らしい風情や、古くからの文化を感じられる寺社仏閣は、いまもぼくたちを楽しませてくれる。京料理だって、きちんと店を選べば従来の価値を提供してくれている。そこは紛れもなく、日本日を象徴する京都なのだ。
一方で、外国人だらけの京都には魅力がないと感じている人も少なくないと聞く。この差は、どこからやってくるのか。ぼくは「なにを魅力と感じているか」、の違いに起因するのだと思っている。
わかりやすくするために、思いっきりステレオタイプに客層を捉えて考えてみよう。外国人観光客は、京都の町家や寺社仏閣、京料理を楽しんでいるのだ。周りに誰がいようと、どんなに騒がしかろうと、それらの価値は決して減ることはない。美しい庭は美しいままである。というのが「彼らにとっての魅力」である。
しかし、京都に行くのを躊躇している日本人観光客にとっての魅力は、たぶんそれだけじゃない。喧騒の中にも凛とした静寂があり、庭はすべての音を吸収してしまったかのうような佇まいをさらしている。そうした中に、自分自身も溶け込むような心持ち。それが魅力なのだ。町の商店街にカフェやスイーツの店があってもいいし、ラーメン屋があっても良い。だけど、「写真映え」を狙っただけの商品が並んでいることには抵抗がある。そこは、誠実であって欲しいという、勝手な願いがあって、そうでない環境になったことを悲しく思うのだ。
「誰にとって何が魅力なのか」。京都の観光にまつわる言説は、その視点で語らなければならないだろう。
最近は京都を訪れていないが、似たようなことを浅草で感じた。浅草寺から少し歩いたところには、土産物屋や甘味処が並び、その先へと足を伸ばせば古くからの飲み屋街に出る。商店街の中にあるジャズバーも好きだったし、その周辺にある衣料品店を眺めて歩くのも好きだった。
一昨年だったか、そのときは1年ぶりに飲み屋街へと足を運んだ。チープな料理だが味わいがあって、ホッピーという昭和を象徴する飲み物が定番化した町。一緒にいた仲間が、一度も訪れたことがないと言うので連れて行ったのだ。しかし、そこにあったのは同じ店ではあったものの、全く別物であった。ぼくが紹介したかった「魅力」のほとんどは、そこにはなかった。わずかに残ったのは、露天であるという雰囲気だけである。
こうした現象は、おそらく日本中で見ることが出来るのではないかと思う。自らの魅力を失って、やがて常連客から見放されていく。我社にとっても、決して人ごとではない。こうして文字を並べている間にも、「お客様から見た自社の魅力」が気になってしょうがない。改めて考え直してみなければ、と思っている。
そうなのだ。個々の企業であれば、見直して修正することが出来る。しかし、集団となるとなかなか難しいのではないだろうか。さかなセンターも、浅草も、京都も、多くの町というのは地域企業の総合体だ。全体の雰囲気や文化を構成しているうちの、一つのパーツに過ぎない。だから、全体の雰囲気をコントロールするなんてことは、なかなか出来ないのだろう。
目の前の状況に柔軟に合わせていくことで、個別企業の最適解を見出すことは出来る。隣の店も、その隣も、同じ環境であれば自然と“最適解”は似たようなものになっていくだろう。そうした結果、地域全体の魅力を損なうことになる。つまり、だ。地域全体を見て判断するという視座と、それを共有することが必要。これが出来ないから、全国で同じ現象が生まれているのだろう。
今日も読んでいただきありがとうございます。大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」では、吉原の旦那衆が一致団結して町を動かしている様子が描かれている。自分とこも大事だけど、やっぱり街全体のことを考えなくちゃっていう意識があったんだろうな。今はどうなんだろう。個別企業のことだけじゃなくて、街全体のことを考えて判断するっていうのが、出来ているのだろうか。