ちょっと前に、戦時のエピソードを読んでいて見つけのだけれど、どうやら人は暇を持て余すと料理を凝りだす傾向があるらしい。人は、というのは主語が大きすぎるのだろうけれど、ちょこちょこ記録を見かけたのだ。細かい部分は覚えていないけれど、例えば終戦直後に大陸から引き上げてくるときは、けっこう暇だったらしい。日本へ帰るために港に向かう間や、順番待ちをしているときは時間を持て余したという。ケース・バイ・ケースなのだろうけど。
本があるわけでもなければ、動画を見られるわけでもない。もちろん戦いもない。たぶん、ボーッとしていたりおしゃべりし続けるのも限界があるだろう。ある人は歌を歌い、ある人は何かを書く。なにやら思索にふけった人もいるだろう。物語を書いて芝居を行ったというのは、アンパンマンの作者やなせたかしのエピソードで知っている人もいるかもしれない。ちょっと手のかかった料理というのは、そういったものと同列に並べられる創作活動であり、暇つぶしでもあった。
先日、弟が似たような環境に遭遇した。子どもが入院したので付き添いで寝泊まりすることになったのだ。パソコンを持ち込んでいたし、病院にはネット環境もある。なにかしら出来ることがあるような気もするのだが、彼が行き着いた境地は「食べることくらいしか楽しみがない」だった。
日中は子供が起きているから、なんのかんのと子どもの世話に忙しいらしい。幼い子供は、病院でトイレに行くのもままならないし、自分でナースコールをすることも難しい。だから、ベッドから離れるのも難しかったという。食堂に行けば温かいものを食べられるのだけれど、そんな時間がないから院内のコンビニで食べ物を買って戻って来る。やっと夜になって子どもが眠りにつく頃には食堂は閉まっているし、2時間もしないうちにネット回線が切られてしまう。
暇というわけでもないけれど、自由な時間が少ない。食べるくらいしか楽しみがないのに、コンビニばかりで辛かった。
食べることを楽しみだと感じることと、料理を作ることが楽しみだという感情。一見似ているようで、状況も心の動きも違うみたいだ。ひとつ共通点をあげると、ぼくらは「楽しみ」がないとしんどくなるということだ。食べることや料理をすることじゃなかったとしても、なにか「楽しい」と感じるものが必要。
本もスマホも与えられない環境だったらどうしよう。無人島に3つだけ持っていけるものがあるとして、何を選ぶ?なんていう質問があるけれど、「本や通信機器は除外する」と条件が付けられたとしたら、無人島での生活をどうやって過ごすのだろう。元日本陸軍の軍人で、終戦後20年以上もの間グアムのジャングルに潜伏し続けた横井庄一は、服を作り続けていたらしい。襟やエポレットなどの装飾を施すことができたのは、もともと洋服を作る仕事をしていたからだけど、生きるために必要なパーツではないところまで作り込んでいた。後に、作ることそのものが必要だったと語っている。ぼくだったらどうするだろう。
凝った料理を作るのは面倒くさい。凝っているのだから当然だ。会席料理の前菜の一品は、ほんのひとくちふたくちで食べ終えてしまうようなものだけれど、それを作るのに何時間もかかることも多い。毎日の生活の中でそんな時間を生み出すのは大変だろう。友だちと遊んだり、テレビを見たり、本を読んだりするほうが手軽だし、仕事をする時間が必要だ。料理を仕事にしている人や料理を作ることが好きな人、それから時間を持て余して仕方がない人でなければ、挑戦してみようという気にならないかもしれない。
こうして並べて見比べると、「美味しいものを食べる」という楽しみは、料理を作らなくても手軽に得られる。それは現代だから言えることなのだけど、もしかしたら数百年前からずっと「食べる」を手軽に楽しめる環境をつくり続けてきたのかもしれない。それは、産業が発達してみんなが忙しくなり続けてきたから、とも考えられる。
とはいえ、もっと昔はみんなが「料理を作る」を楽しんでいたかと言うとそうでもない。日本ならば、貴族の楽しみではあったけれど、ほとんどの人にとっては無縁のこと。料理を作ることを楽しめる環境もまた同じようにつくり続けてきたともいえる。
今日も読んでいただきありがとうございます。さてさて、ぼくら現代人は両方を手に入れたのだろうか。その気になればどちらも楽しめる環境が揃っているような気もする。だけど、ヒマというものが不足しているのだとしたら、作る楽しみを享受できる環境が整ったとはいえないのか。「食の楽しみ」って、一体なんだろうな。