たべものラジオを「歴史」という視点で見た時、食を題材としているのは良いなぁ。と、手前味噌ながらに思っている。
歴史が好きな人、興味のある人にとっての旅は、史跡を訪れたときに感じる「タイムカプセル感」を味わう様なところがある。数百年前のあの人が、この廊下を歩いていたんだな。とか、こんな場所から景色を眺めていたんだな。などと空想するのが楽しい。もしかしたら、こんな地形だったからあの行動に繋がったのかもしれないななどと思いを馳せることもワクワクする。
脳だけでりかいするのではなくて、身体的な感覚で捉えに行く。そんな行為。好奇心の強い人ならば、新たな気づきに興奮するかもしれない。
食べ物が題材だと、あまり遠くへと足を運ぶ必要がない。ちょっと珍しい食材や料理を取り上げることもあるけれど、豆腐も蕎麦も砂糖もミルクも、お米もお茶も味噌汁も、みんな身近にあって手に入れようと思ったら簡単に入手できてしまう。タイムカプセル感がとても身近なのだ。偶然食卓に並んだ料理や食材を見て、ほんのひととき物語に思いを馳せることが出来る。
頭で理解することと、身体感覚で捉えることは、どちらか一方だけではなく両立することが良いんじゃないかと思っている。禅宗の教えに「不立文字」という言葉があるけれど、学びは文字のみに立たずという意味らしくて、ぼくはこれを気に入っている。
ただ、身体で感じるというのは意外と難しい。難しいというのは技術的なことじゃなくて、意識していないと疎かになりやすいという意味で難しいと思う。
例えば、山に行って大木や大きな岩に出会ったときに、両腕を広げて抱きつくようなこと。近づいていって匂いを感じるというようなこと。眺めるとか観察するといったことはするかもしれないけれど、意識していないとわざわざ触ろうとしないかもしれない。
何かの拍子に触れることはあるかもしれないけれど、感じようと意識していないと体の中を素通りしてしまう様な、ほんの僅かな感覚。それは、捉えようという意識があるかないかで受け取り方に随分と差があるのだろう。
食卓に向かって、眼の前にある食材や料理にちゃんと向き合う。というと仰々しく聞こえるけれど、もっとシンプルに「これ美味しいね。」といった会話をするだけで良いし、前に食べた似たような料理に思いを巡らせても良い。たべものラジオが、食と向き合うきっかけになっていると良いな。と思っている。
話は少々飛ぶけれど、料亭では「接待」が行われる。企業と企業とで会食の場を設けるという、あれだ。毎回ではないけれど、けっこう多くの接待では「何を食べたか覚えていない」ということが起きているらしい。それもそのはずで、眼の前にある食べ物や酒のことに意識が向いていないのだ。
もちろん、取引先との会話に集中していたというのもあるだろう。ただ、ほとんど仕事の話やゴルフの話ばかりで、体が食べ物に向かっていないという原因もあるのではないかと思う。ずっとではなくて良いから、少しくらいは食に正面から対峙してほしいものだと、料理人としては少々寂しく思うところもある。
人と人とが心の距離を縮める時、共通の興味関心があると良いという。逆に意見が分かれる話を避けるという意味で、「政治と野球の話はするな」という格言まである。ゴルフや仕事の話が多くなるのは、それが共通項として会話しやすいということなのだろう。
そういう意味では、「食」は圧倒的に共通の会話として使いやすいはず。会社の近所に美味しい店があるなんていう話になれば、それはそれで盛り上がる。鮎釣りが趣味の人がいたら鮎の塩焼きを提供するとか、北陸の人がいたら桜えびを提供して白えびの話につなげるなんていいう仕掛けをすることもできる。
そして、五感をちゃんと使って料理を食べる。見て、匂いを嗅いで舌触りや歯ごたえを感じて、味を楽しむ。そういう共通体験みたいなことが、古くから人類がやってきた共食体験なんだと思う。
今日も読んでいただきありがとうございます。食に限らないとは思うんだけど、もっともっと身体感覚を使うってことをやったほうがいいと思うんだ。現代人は特に脳化しちゃっているから、意識的に体の感覚を使おうとしてもまだバランスが悪いくらいだって、そんな話を聞くんだよ。