久しぶりに立ち寄った中華料理屋は、そこで働く人の顔ぶれがすっかり入れ替わっていた。カタコトの日本語を話す店員さんは、子どもたちの顔を覚えていて笑顔で迎えてくれていた。けれども今は、全く知らない別の「カタコトの日本語を話す店員さん」になっている。
厨房の料理人の顔までは見えないのだけれど、味も変わった。前よりもずっと味が濃くなっていたし、油の量も多くなっていた。このところの物価高騰の煽りを受けて価格が上がっていたし、量も減っていたのだけれど、それ以上に味の変化が大きかったように思えた。以前なら、量が多くて食べ切れそうにないというくらいの大盛りの野菜炒めも、それでも感触するのが常だった。隣のお客さんは、今日は調子が悪いと言いながら炒め物を残して帰っていったのが印象に残った。それが理由かどうかはわからないけれど、訪れるお客さんの雰囲気も変わったような気がする。
一つ一つの変化は大して大きくはないのだけれど、ちょっとしたことの積み重ね。人が入れ替わると、同じお店で同じメニューが提供されていても、それは似たような別の店のように感じられるのだ。これは肝に銘じておかねばなるまい。
そう考えると、チェーン店というのはとんでもないシステムを備えているのだと思う。チェーン店と一口に言っても、〇〇店のほうが美味しいという場合もあるのだけれど、概ね一定の範囲にすべてが収まっている。味も、サービスも、別の店と感じられるほどの差異はない。大きな上振れもないかもしれないけれど、大きく劣化するということもない。飲食店の歴史をながめてみると、人類の営みはここまで来たのかと驚きに値する存在だ。
一方で、コンビニ弁当やチェーン店の料理は評価が上がりきらない。一流のシェフが作るパスタにはかなわない、というのは大抵の人が納得していて、そこまでのクオリティを求めていない。日常食としては及第点以上のクオリティを提供していることも多いので、十分に満足なのだ。にも関わらず、評価が上がりきらない。確かに、日本のコンビニ弁当のレベルは圧倒的に高いと言われているし、ラーメンもうどんも蕎麦も美味しいと思う。ただ、コンビニ弁当の割には、という前提が言外にあるようにも感じられる。
たぶん、味の絶対値だけが原因じゃないと思う。個人的には、好みに合わないということもあるのだけれど、それよりも「飽きる」というのが大きな要素なのじゃないだろうか。
最近になって知ったのだけれど、ポッドキャストの編集をするときにはあえて呼吸音を残すようにしているのだそうだ。4年近くも番組を作っていて、ぼくは全く知らなかった。どうやら、息を吸う音をノイズとして消去してしまうと、長く聞いていられないのだとか。リズムが悪くなるということもあるし、なんとなく居心地が悪くなってきて、息苦しく感じることもあるそうだ。
完全に安定した料理というのは、どうも「呼吸音の聞こえない音声」みたいな現象があるのじゃないかと思い至った。なんというか。人が作ったもののであるはずなのに、人が作ったように感じられない。音声で言えば、機械音声のように聞こえる。どうにもこうにも単調なのだ。
単体では良いのだけれど、連続することができない。ポッドキャストも料理も、単調だと持続することができなくなる。想像の域をでないのだけれど、ぼくら人間はあまりに単調なものは苦手な生き物なのだろうかと思ってしまう。
そう考えると、前出の中華料理屋は息吹が感じられる。すっかり人が入れ替わってしまったことで、ぼくにとっては初見のように感じられたけれど、しばらく通ったら居心地が良くなるかもしれない。その日は、たまたま味が濃くなってしまっただけで、しばらくしたらまた変わるかもしれない。そういえば、同郷人らしきお客さんは前よりも多かったし、彼らと店員さんの間柄は親しいようにも見えた。
見る目を変えれば、どちらにも良いところがあって、どちらも味わい深いし、飲食店という業界全体のバランスを考えたら両方あったほうが良いと思える。
今日も読んでいただきありがとうございます。どっちが良いとか悪いとか、そういう議論をしたいわけじゃなくてさ。どっちも良いなぁって、ホントに思うんだよ。人の営みを感じられるのもいいし、いつでも安定したクオリティを提供する仕組みを作った人たちの努力も素晴らしい。とまあ、そんな着地で良いのかもしれない。