もうほとんどの人はスマートフォンを使っていると思うのだけれど、まだいくらかはガラケーを使っている人もいるのだろうか。最近は、オンラインストアで携帯電話を購入してしまうから、販売店の事情がわからないのだけれど、それでもまだ二つ折りの携帯電話がラインナップにあるところを見ると、需要があるということなのだろう。
「ガラケー」という言葉が、割と好きなんだ。ガラパゴス諸島の生き物のように、外界と断絶されたかのような世界で独自に発展したものという意味でガラパゴス化した携帯電話と称された。それを縮めてガラケーと呼んでいるわけだよね。
世界の大きな流れとは違う進化をしてきたのだけれど、ひっくり返せば独自の進化を遂げた特異性が悪いことだとは思えないのだ。携帯電話にインターネット接続を搭載したのは、そもそも日本のガラケーが最初。いや、語弊があるな。大衆向けにサービスを広く展開したのは、日本が最初だったはずだ。PC用のサイトを携帯電話で見られるようにするのではなく、携帯電話向けにカスタイマイズをするという発想が尖っていて面白いじゃない。
新型コロナウィルスのパンデミック以前には、インバウンドが活況になりかけていた。観光客を虜にするというのは、ガラケーのようなチャレンジもあって良いのではないかと思うんだよ。
世界の流れを知っていて、その上で独自進化を遂げたもの。携帯電話がそうであるように、あらゆる「日本らしい」と言われるプロダクトは、独自に変化し続けてきたものだ。江戸時代のように鎖国をしなくても、勝手に独自の変化を続けるのだろう。それは、日本だけのことではないと思う。海外からの文化を受け取って、その地域に合わせてカスタマイズが進む。そうした事例は、世界中の食文化の変化を眺めているとよく見られる。
ただ、日本はその傾向がより強い。だから「魔改造文化」などと言われる。
さて、日本という国を観光という視点で見たときに、ひとつにくくることにあまり意味がないように思える。これだけ広い国土を持っていて、南北に長いのだ。それぞれの地域にはそれぞれの独自の文化が定着している。薄れてはいるかも知れないけれど、それは確実にある。それもまたガラパゴス化と言えるのではないだろうか。
エリアで区切るのはナンセンスなのかも知れないけれど、現実には「一定のエリアに住む人々が共有する文化」は存在している。国内旅行でも、そうした文化の違いを感じることは旅の醍醐味の一つだろうと思うのだ。
勝手にやってきて、勝手に感じる。絵画でも彫刻でも、歌謡でも和歌でも。感じるとうのはそういうことなんじゃないかと思う。だから、無理やりに外国人観光客に合わせる必要など無い。というのは、文化という意味で。
ただ、インフラは整えるべきだと思っている。
観光インフラというのは、ヨーロッパ式の宿泊施設を整えるということではない。ちゃんと清潔感のある部屋で、使いやすく、使い方がわかるように解説がなされている。そういうようなことだ。日本料理を楽しみにしている人に対して、妙に西洋かぶれした料理を作ることではない。日本料理の文化を理解できるように、寄り添うこと。極端に言ってしまえば、わかりやすい解説などがそれに当たる。
パンデミックが落ち着いて、やっと観光産業も持ち直していくことになるだろう。その時、インバウンド対策というのは、かならずトピックに上がるはずだ。インバウンド対策という言葉を表面的に捉えるのではなくて、何を残して何を見直すべきなのかを改めて整理する必要があるのだろうと思っている。
今日も読んでくれてありがとうございます。「外国人観光客」という言葉で括ってしまうことに意味はないと思うんだよね。何しろ、80億人もいるんだよ。バラバラに決まっているじゃない。アメリカ人と言うだけでも3億人以上いるんだから。何を見て何を感じるかなんて、国単位で分析している場合じゃないんじゃないかな。世界規模の民俗学みたいなものが必要なのかもね。