今日のエッセイ-たろう

多様性を語る前に。〜考えておきたい、共通項でくくるということ。 2025年10月7日

「“多様性”の反対って、なんだろう?」
ちょっと調べてみるたところ、“画一性”がそれらしい。他にも、“均質性”や“均一性”という言葉も出てきた。なんだかモヤモヤする。

多様性って何だろう?

手元にある国語辞典をひいてみると、こんな語釈が載っていた。
多様…色々な種類(がある様子)
画一…特殊事情を考慮せず(規格に従って)すべてを一様にすること。
均質…その物のどの部分、同類の物のどれを取ってみても一様の質(密度、質)であること。
均一…その中のどれを取っても金額、質量などが同じであること。その様子。

一般に「多様性が大事」と言われているのは、「みんな違ってみんな良い」をを認めようってこと。いっぱいいろんな花が咲いている“百花繚乱”がイメージとして合いそうだ。となると、みんな同じ花が良いよねというのが反対のイメージということになるのだろうか。だとすると、対義語としては“画一性”が相応しいのか。こういうとき、言葉の選び方って難しいな。

「みんな違ってみんな良い」と並べてみて、同じようなトーンで語るなら「みんな一緒って素敵」とか「みんなだいたい同じだね」という感じだろうか。

画一性は悪いのか?

「日本人は制服が好きなんだね。」
「そう?制服は学校とか、職場で使う道具の感覚だけど?」
「だって、旅行に行くのだって、みんな同じ格好しているでしょう。」
視線の先を辿ると、そこには若い女性が数人。みんな一様に、トレンチコートのインナーにパーカーという出で立ち。友人はそれを“秋の制服”と言って笑った。

多様性が無いといえば、そのとおり。だけど、その光景がおかしいとも思わなかったし、それはそれで“集団としてオシャレ”だな、と思った。同じなんだけど、ちょっとずつ違っている。一面のコスモス畑がキレイだと感じるのと似ているのかもしれない。なんとなく雰囲気を合わせた家族連れとすれ違ったときには、なんだか良い気分を感じることもある。

これは、画一性や多様性の話とはズレているかもしれない。ただ、「“画一性v.s.多様性”のような対立構造で捉えるは、ちょっと違うよね」という感覚を思い出させてくれる。

そもそも“画一性”はとっても便利なのだ。同じサイズの箱をまっすぐ縦に積み重ねれば現代的なビルが現れる。近世以前ならば考えられなかったことだ。上に行くほど狭くなるし、形状も装飾もそれぞれに異なる。隣も、その隣も同じなんてことはないのが普通。つまり、建物というのは“眼の前のひとつ”に注目して、それだけのために作るものだということだ。

だけど、それはとても手間がかかるしコストも掛かる。同じ材料を沢山用意して、同じ様にいくつも組み立てたほうが効率が良い。コストも下がる。江戸時代の長屋はそうやって画一的に作られたし、もっと古いところでは五重塔が全国各地に建てられるようになった。ある程度の知識があれば、高度な知見や技術がなくても量産できるのもメリットだ。

画一性の基にある感覚

「ax+ay+az=a(x+y+z)」
数学が苦手な人も、ちょっとだけ思い出してほしい。中学生の数学で習った「共通項でくくる」というやつだ。みんな違うけど、aだけは共通している。たぶん、ぼくらの社会もこんな感じなのじゃないかと思うのだ。
ある程度は「みんな、だいたいこの部分で一緒だよね」という合意のようなものがある。多様なことを認めつつ、どこかで画一性の便利さを受け入れるための妥協点を共有している。

だけど、実際には上記の数式ほどシンプルではない。共通項(a)以外の部分は恐ろしいほどに複雑だ。それに「一緒だよね」と思っていた部分だって、aやa'やa''とちょっとずつ違っているのが普通だろう。みんな、ちょっとずつ違っていることをわかっている。わかったうえで、それでも「便利だから合わせよう」としている。社会全体の最適化という意味で合わせるということもあるし、それ以外に選択肢がないという消極的な意味で合わせている場合もあるだろう。

「なんとなく共通項っぽいもの」を見出して、多少はみ出していてもそこに「収まろうとする」。これは、多様性を否定するものではなくて、社会生活の知恵と言えるのじゃないだろうか。

大きな共通項でくくることの弊害

共通項でくくることのメリットは大きい。経済的効率化はもちろんだけど、一定の仲間意識を醸成することにもつながる。社会動物である人間は、曖昧ながらも「ここからここまでが仲間」という線引をしなければ集団を維持できない。精神的なものであれ、具体的な行動や物であれ、何かしら共有できるものを持つだけで、国は国となる。

日本はかなり昔から“米”を食べてきた。だけど、同時にヒエやアワ、麦、蕎麦なども主食として扱われてきた。米は、みんなの憧れの存在だったし、圧倒的な主役ではあったけど、それだけが主食というわけじゃなかったんだ。「主食=米」という認識が強くなっていったのは、江戸時代以降。決定的だったのは明治時代で、「日本人は米を食べる民族だ」と強調されるようになり、軍隊や学校の給食でそれが実践されていった。

アメリカでは、ハンバーガーやバーベキュー、ホットドッグ、ピザなどが国民食となっている。日本のように、アイデンティティのために強調されたわけではない。ただ、あまりにも多くの民族を受け入れた結果、共通項が少なくなったのだ。みんなが納得できるおいしいものは、シンプルではっきりとした味付け。わかりやすい味にならざるを得なかったのだろう。

多くの人に受け入れられるようになったことで、これらを取り扱うビジネスは成長した。マーケットがビジネスを育て、ビジネスがマーケットを育てる。その繰り返しである。最初のうちは良かった。だが、気がつけば「たくさんあるはずの“小さな良きこと”を押しつぶしてしまうことにも繋がった。今でも消滅したわけじゃないけれど、数ある郷土料理はその規模が小さくなり続けている。

郷土料理というのは、ある特定地域における共通項。人数が少ないからこそ成立するものだ。これを押し広げようとすると、もっと大きな数の中で共通項となりうるものだけが生き残ることになる。ハンバーガーも、東海岸中部の郷土料理だったが、今ではアメリカを代表する料理となった。そういう意味では、江戸の郷土料理だった握り寿司も似たような存在かもしれない。いつの間にか「アメリカにハンバーグステーキという食べ方はない」とアメリカ人が言うようになった。かつては、アメリカの国民食だったはずなのに、である。日本でも、単にスシといえば握り寿司を示すようになり、ナレズシを食べたことがないという人も多い。

こうして、少数グループにおける共通項の存在感は、だんだんと薄れていった。これが、おそらく大きな共通項でくくることの弊害のひとつめだろう。小さな良きことは、気が付かないうちに影を潜めていく。

共通項でくくることの息苦しさ

一旦共通項でくくられたけれど、その共通項はすこし粗いものだと考えている。前述した例に当てはめれば「a'もa''もaということにしてくくる」ということ。だから、本当はaじゃないと言いたい人達がいるはずだ。

これは、共通項aのグループの中でハズレ値になる。良い意味で言えば、例えば「米はもちろん好きだけど、定期的にそばを食べたくなる」とか、「雑穀米が癖になるんだよね」という、食の好みの多様性として現れる。

一方で、大きくハズレた場合は場合によっては差別の対象になりうる。限りなくaから遠い個性を持っているのに、aでくくられている。前述の「日本人は米を食べる民族だ」に引きつけて語れば、「私は日本人」の部分は真だけど、「米を食べる民族だ」の部分は疑である可能性もあるということ。米くらいに淡い味なら、そこまでハズレ値にはならないかもしれない。でも、個性の強いハンバーガーの場合は「私は好きじゃない」というアメリカ人も一定数存在していて、場合によっては差別的な扱いを受けるかもしれない。

現代において、特定の食文化の中で食に関する差別を受けることは少ないかもしれない。ただ、歴史的に見れば、食を含めた生活習慣を持って“野蛮”と評した例は枚挙にいとまがない。

共通項の多様化

共通項でくくることは画一化を意味している。にも関わらず、それは多様化する。一見矛盾するようだけれど、これが両立するのだから世の中は面白い。

大きなグループでまとめると、それは大きなビジネスになる。食も住居も衣服も、そう言ってしまって良いだろう。そして、大きなグループをベースとしたビジネスが、大企業によって飽和状態を迎えると、新規参入は難しくなる。「じゃあ、もう少しマーケットを絞ってビジネスをしよう」ということになるだろう。それは、「万人受けしないかもしれないけれど、特定の人たちの心に刺さるビジネス」となる。aではなくa'でくくるということなのだから、a'の人たちにとってはピッタリだ。

複数の整数を素因数分解していって、全てをくくることが出来る数は1しかない。次に多いのは2。こうした0に近い数は、ビッグビジネスになっている。グローバルで見れば穀物メジャーのような存在だ。参入障壁はとてつもなく高い。
1も2も多くの整数に含まれている。他のどんなビジネスにも顔を出してくるインフラのような存在だ。幸いなことに、ぼくらはそれらを使って別の整数に加工することが出来る。それぞれの食文化、好みに合わせて98にすることだって可能なのだ。あとは、98を好むマーケットがどの程度の大きさを持っているかどうかが、ビジネスでは問題になる。売れなければ商売にならないから。

多様性と画一性

郷土料理は、その地域を代表する特徴的な料理である。それは間違いない。秋の東北地方を代表する料理といえば“芋煮”だ。でも、同じ“芋煮”という名前でも各県ごとに特色は違っている。さらに、県内でも地域ごとに特色は違うし、家庭ごとに味が違う。あたりまえのことだ。

これをビジネスにしようとすると、どうしてもある程度は画一的にしなければならない。それは、効率化のために致し方ないこと。あまりにも強い力で画一化すると、郷土料理は本来の姿を失う可能性がある。今まで「この商品はこういうものだ」と強く定義しなければならなかったから。これこそが本家であると言い続けることも、ブランディングとして必要だっただろう。そうして、長い年月をかけて、多様な食文化は淘汰されることもあった。

本来、多様性と画一性は両立するものだと思っている。常にゆらぎの中にあって、それぞれの社会状況の中でバランスを保ってきたのだろう。それで良いと思っている。
ちょっと心配しているのは、画一化の力が強すぎるんじゃないかということ。近世(日本で言えば江戸時代)くらいから、ビジネスを中心とした社会になってきた。いろんなものが工業化していって、西欧で始まったエネルギー革命は工業化と融合して産業革命と呼ばれるようになった。それが、現代では強めの画一化に繋がっている。そのベクトルが、少々強すぎるのではないか、という懸念だ。

今日も読んでいただきありがとうございます。

もうちょっとバランスを取ったほうが良いと思うんだよね。問題はそれを誰がやるかっていう話なんだけどさ。伝統産業を守ろうっていう動きをしている人たちは、どちらかというと多様性を担保しようとしている人たちでしょう。つまりマーケットが小さいんだ。だから、どうしても厳しい環境での戦いを強いられる。ここに、画一化をベースにビジネスをしている人たちが参与することで、食文化全体のウェルビーイングが上がるような気がしているんだけどね。さて、みなさんはどう思う?

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武藤 太郎

1978年 静岡県静岡市生まれ。掛川市在住。静岡大学教育学部附属島田中学校、島田高校卒。アメリカ留学。帰国後東京にて携帯電話などモバイル通信のセールスに従事。2014年、家業である掛茶料理むとうへ入社。料理人の傍ら、たべものラジオのメインパーソナリティーを務め、食を通じて社会や歴史を紐解き食の未来を考えるヒントを提示している。2021年、同社代表取締役に就任。現在は静岡県掛川市観光協会副会長も務め、東海道宿駅会議やポートカケガワのレジデンスメンバー、あいさプロジェクトなど、食だけでなく観光事業にも積極的に関わっている

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