走る、投げる、蹴る、打つ。どんなスポーツも、一流選手の動きって、見ているだけでワクワクする。スポーツそのものがスリリングだってこともあるけれど、それ以上に「なんか人間ってすごいな」と思ってしまう。
一線を越えた世界に足を踏み入れた人たち。そこへ到達するための様々な努力は、きっと常人の想像を超えているだろう。ただ力ずくで頑張るのではたどり着けない道。そこへ思いを馳せると、あらゆるアスリートたちへの畏敬の念を持つし、それが魅力に繋がっているのかもしれない。
努力の解像度
「走る」という行為は、単純そうに見える。だって、大抵の人は走れるから。
だからつい、「がむしゃらに頑張れば速くなる」と思ってしまいそうになる。だけど、実際はそんなことはない。
マラソンの一流選手は、がむしゃらに頑張って走って速くなったわけじゃないのだ。
マラソンに適した足の動かし方や姿勢があるのだろうと思うのだけど、それについてしっかり研究する。そして、走る技術を活かすために必要な体を作っていく。体のどの部分に、どんな筋肉がどれほどあれば良いのか。それを的確に動かすための心肺機能の鍛え方。なんてことも考えるだろう。最適なシューズ選びも大切になるかもしれない。それらを含めて、日々地道なトレーニングを繰り返して、ちょっとずつレベルアップしていく。
気合と根性でやみくもに体を動かしているだけでは、辿り着くことの出来ない世界。努力というのは、「いつ」「なにを」「どの程度」行うのか、という3つの要素で成り立つのだと思う。それぞれのポイントで高い解像度で研究して、最適解を求めてコツコツ積み上げていくもの。根性論でいうところの「努力」は、上記のカテゴリ分類や研究という視点が抜けているように思うのだ。
実際に自分が出来るわけでもないし、的はずれな想像かもしれない。ただ、そこに思いを馳せるだけで、ぼくはアスリートたちに魅力を感じてしまうのだ。
努力のテンプレート
武道には「形稽古」というものがある。
高校時代に所属していた柔道部でも、ひたすらに繰り返しやらされたのを覚えている。実践とは違って、相手はほとんど無防備の状態。で、技をかけるところまでの動きを繰り返す。体、手、足の位置、体重の置き方、力を入れる量とタイミング。そういったものを、一つ一つ確認しながら繰り返すのだ。体力が落ちてくると、指定された数を消化しようとして雑になってくるのだけれど、そのたびに師範から激が飛んだ。
実践的ではないけれど、「理想の型」を体に染み込ませる。
では、その「理想の型」は、いつどこでどうやって決められたのだろう。それは、天才的な才能を持った先人たちが、研究の末にたどり着いたものなのではないかと思っている。一線を越えた人たちが、長い年月の間に継承しながら改良し続けたもの。それは、努力のテンプレートなのだ。
仮に、努力の解像度が低いままであっても、言われたとおりに体を動かせば良い。それだけで、やみくもに体を動かすだけではたどり着けないところまでは連れて行ってくれる。研究をしなくても良いのである。「習うより慣れろ」というのは、型稽古の段階の話をしているのだろう。
型をマスターするためには、基礎練習が必要になる。柔軟体操や、筋トレ、体重移動、打撃系ならば突きや蹴り。こうした、一つ一つの行動がうまく出来なければ、型稽古の効果は得られない。もしかしたら、最初は“型”なんてなかったかもしれない。実践の中で「これはうまくいくぞ?」というパターンを見つけ出して、他の人にも通用するものが型になっていった。さらに、パターンを要素分解して基礎が生まれた。
努力のためのレシピみたいなものだろう。
一般的に、「基礎が大事」と言われる。それは、上達するために必要なステップの一番最初にやるべきところだから。基礎が確立しないまま形稽古だけを繰り返しても、上達の速度は上がらないし、一線を越えるなど難しい。と言っているのだろう。
テンプレートはどこまで連れて行ってくれるのか
形稽古をハイレベルでこなせるようになったとき、ぼくらは達人の実力にどれほど近づけているのだろう。たぶん、はるかに及ばないのではないかと思っている。
例えば、何人かの歴代の師範が型稽古を完成させたとする。師範たちの実力を100点として、形をマスターしたら100点なのかと言えば、50点とか60点くらいのイメージ。つまり、型というのは、「複数の才能の“共通部分”を抽出して、それをマスターするための“努力のテンプレート”」、なのじゃないかと思うのだ。
だから、師範たちは、その先の一線を越えた世界にいて、おそらくそれぞれが違う世界を見ている。
守破離に置き換えれば、形稽古は“守”。師範たちは“離”の世界で鍛錬を積んだ人たち。そういう差があるように思う。そして、そこに到達しようと思ったら“破”というステップを突き抜けていかなければならないのだけれど、そこが難しい。なぜなら、この段階から研究が必要になるからだ。
これまで“努力のテンプレート”で訓練を積み重ねてきたことで、“研究”というステップを省略してきたのだ。今度は自分で観察して、失敗を繰り返しながら研究することになる。この経験が少ないと、“破”のステップで苦労することになる。
とはいえ、最初から研究するよりもずっと良い。型を繰り返し行ったことで技量が備わっているからだ。自らの技量は、直接的に思考に影響する。何も体得していない状態では考えつかないことを考えられるようになっているはずだ。
このタイミングで、「やっぱり基礎って大切だよな」と実感するのだろう。改めて、自分自身や周囲を観察して考える。研究するには、ちゃんと正しく観察しなくちゃならないのだけど、ここでも基礎や形稽古が役に立つ。
テンプレートそのものが連れて行ってくれるのは、道の途中まで。だけど、その先へ進むための土台にもなりうる。というのが、形稽古の強みなのだろうと思っている。
スポーツだけじゃないテンプレート
料理人の世界でも、同じ考え方で良いと思う。とりあえず基礎と型を盲目的にやる。そこから始めるのだ。そうすると徐々に観察する目が養われていって、ちょっとずつ工夫を積み重ねていく。やがて型から外れて、自分なりの料理や味付けが確立していくのだ。
ぼく自身もそうだけど、周りの人たちを観察しているとそう見える。
スポーツでもそうだけど、料理人の世界でも形稽古もその先の世界も“観察”が重要。たぶん、ビジネスパーソンも個人スキルを高めるためには、大切な要素だと思う。ただ、自分を客観的に観察するのはとても難しい。だからこそ、トレーナーやコーチがいる。“守”の段階では、正しい型へ導いてくれるために自分を観察してくれる存在だし、その先はもっと広く観察をして一緒に考えてくれる存在。
料理人の親方、会社の上司、学校の教師。あらゆるところで、コーチの役割を担ってくれそうな存在がいる。けれども、うまく機能していないこともしばしば見られる。それは、今回整理したような流れが共有されていないからなのかもしれない。
ここまでに書いてきたことは、「ぼくなりの整理」。だから、これが正解だとは断言できない。ただ、今までぼんやりとしていた、“個人スキルの成長ステップ”を、我流であっても整理することは大切なのだ。仮にこれが正しいとして、理解が進めば「やみくもに頑張って、壁にぶつかって心が折れる」というのが減るんじゃないかと思うんだ。
今日も読んでいただきありがとうございます。
技そのものや、そのためのトレーニングについて語っている動画があってね。ぼくは門外漢だし、それにチャレンジしようとも思っていないのだけど、見ているだけでめちゃくちゃ面白いんだよ。「すげー。そんなところまで考えてるんだ」みたいな感動。
日本の産業って、オタク的に解像度高く研鑽を重ねたところに、強みがあるような気がしていてる。そのメカニズムは、きっと日本文化の中に既に存在しているはずなんだ。ちゃんと解明して活用できるようになれば、日本の未来を明るくする材料になるだろうか。