いまは昔、竹取の翁といふもの有りけり。野山にまじりて竹を取りつつ、よろづの事に使ひけり。名をばさかきの造となむいひける。
有名な竹取物語の序文。よくわからないままに暗唱させられたのを覚えているのだけれど、覚えているのはここまで。学校の授業で取り扱った程度に読んだだけで、全部を読んだような気になっているのは、かぐや姫という物語を知っているからなんだろうな。いまでもまだ読んでいないけれど、ただの空想物語じゃないことは聞いたことがある。
さて、冒頭に挙げた文章をどんなふうに読んだだろうか。きっと心のなかで読み上げたことだろうとは思うのだけど、気をつけなくちゃいけないのはイントネーション。「標準語の音程」が多いのじゃないかな。地元の方言に近いイントネーションで読む人もいるかも知れないけれど、学生時代に暗唱させられた影響なのか、ぼくは標準語っぽい音程とリズムで読んでしまう。
最近になって気がついたのだけど、これホントは近畿地方のイントネーションで読まなくちゃいけないんじゃないかな。作者が誰かは知らないけれど、平安時代のことが描かれていて登場人物は都の人も多いから、きっと平安京の近くの人なのだろうとは思う。そもそも言葉の発音が現代語とはぜんぜん違うと言われているけれど、なんとなくイントネーションは残っている気がしている。であるならば、少なくとも近畿地方のイントネーションで読んだほうが良いのかもしれない。良いという表現がしっくりこないな。元々の演出に近い、という感覚。
近畿地方のイントネーションをマスターしているわけじゃないけれど、それっぽい雰囲気を真似して声に出してみる。いやはや、なんともリズミカルでメロディアスな文章だ。これはびっくりした。みんな知っていることなのかもしれないけれど、ぼくにとっては大発見。
現代的に楽譜に書き起こすとしたら、拍の取り方が違うように思う。ぼくの最初の認識では四拍子の一拍目に「い」がくる。で野山の「の」も一拍目。だから、「ありけり」と「野山」の間に休符がある感覚だった。けれど、イントネーションを変えてみたら、一拍目が「ま」になっちゃった。そのままの勢いで読み進めると、、「いひける」までが流れるように読める。これはまるで歌じゃないか。
こんなにも文章の切れ目、つまり休符がなくてもちゃんと文章の切れ目が聞こえてくるのは、もしかしたらメロディーのおかげなのだろうか。と勝手に妄想が進んでしまう。現代人があたりまえのようにやっている黙読というのは、明治以降に一般化したという。かつては黙読のほうが珍しくて、音読や朗読が普通。和語というのは、音にしてこそわかることも多いのかもしれない。声に出して言いたい日本語というのは、こういうことか。などと、今更ながらに驚きながらワクワクしている。枕草子も、古今和歌集も、源氏物語も、ぼくが知っているものとは違うってことだ。いや、たいして読んではいないのだけどね。
プレゼンテーションで、書いてある文章をそのまま読み上げる人がいる。正直なところ、「書いてあるなら読まなくていいよ」くらいに思っていた。要点を言って欲しい。決算書みたいに、表と数字の組み合わせの場合などは特にそうだ。たまに、スライドに文章があって、それをそのまま読み聞かせてくれる人もいる。
もしかしたら、これは古代から続く日本文化なのか。そうなの?
だとしたら、リズムとかイントネーションみたいな音楽的要素が必要なのかもしれない。硬い言葉遣いじゃなくて、日常的な口語体で喋ってもらったほうが聞き心地がよく感じることがあるけれど、それは文体の問題じゃなくて音楽要素が足りないということなのだろうか。
今日も読んでいただきありがとうございます。音読の効果って、どんなことがあるんだろうな。視読、黙読、音読、朗読。それぞれ影響が違いそうだ。冒頭の文章、電車の中で音読した人いる?明治時代には普通にいたらしいよ。