見たこともない食材に出会った時、どう調理して良いのかわからないということがある。下処理だとか、調理方法だとか、味付け、相性の良い食材、などが想像つかない場合のはなし。
まずはインターネットで検索するだろうか。だけど、その食材の名前がわからなかったら、ちょっと困る。図鑑で調べたり、AIに画像解析してもらったり、別の方法で調べることは出来るが、なかなか面倒ではある。そんな時、料理人は調べもせずに答えを導き出してしまうことがある。
身体知を使う
とりあえず、蒸したり焼いたり揚げたりしてみる。生でかじってみることもするけれど、ほんのちょっとだけ。生食に適していないこともあるから。塩を振ってみたり、醤油をつけてみたり。そうやって、味や匂い、食感などを確かめていく。どの調理方法が合っているか試すというよりも、食材の特性を掴もうとするイメージだ。
そのうち、調理方法や味付け、食材の組み合わせなどのアイデアが浮かんでくる。料理を仕事にしている人は、これが比較的早い段階でやってくるようだ。
知識が豊富であることがアイデアに繋がるというのも、一つの理由だろう。だけど、それだけでアイデアが浮かんでくるわけじゃない。普段から”実践”しているからアイデアが生まれるのだ。これは、料理に限った話じゃなく、たぶん、ものづくりもスポーツもビジネスも同じだ。
磨き上げられた経験
実際に体を動かしていると、物事のプロセスを”身体的に”理解することが出来る。あれこれと筋道を考えなくても、まるで自明のものであるかのようにプロセスがわかるのだ。例えば、ブリをまるごと一匹手に入れたとしよう。ぶり大根を作るのに、必要な材料や調味料や道具、必要なスキル、手順と時間がぱっと思い浮かぶ。というようなことだ。
料理というのはとにかく変数が多くて、食材もそれぞれに状態が違うし、その日の気温も違う。だから、ロジカルに考えようとするとかなり大変なのだけど、なんとなく感覚でわかってしまう。考えるよりもずっと早いのである。たぶん、この感覚については分かる人が多いのではないだろうか
さらに一歩進めて経験値が増えると、膨大な変数に対する対応力が高くなる。過去の結果なんて覚えてはいないだろうけれど、”なんとなく”適正な判断を行ってしまうのだ。もしかしたら体の何処かにデータベースでもあるのだろうか。こういうのを”職人の勘”と呼んでいるのだろう。
経験による判断力
こうした感覚は、経験が積み重なった結果として生まれる。そして、自分には何が出来て何が出来ないのか、がよく分かるようになってしまうのだ。スキルやリソース、資金、時間など、だいたい感覚で捉えられる。だから、アイデアを実行に移すことが出来るというわけだ。プロセスを理解するだけでなく体を動かす、というのは、そういうことだ。
「こんなアイデアどうですか?こういう世界もあるんじゃないですか?」と言われることがある。それはそれで、素人なりの斬新な発想が世界を切り拓くこともある事はある。だけど、大抵の場合瞬時に是非の判断がくだされる。簡単に断られたと感じるのか機嫌を損ねる人もいるが、そうではない。多くの場合、磨き上げられた経験は、素人が熟考したよりも深く早く判断を導いてしまうのだ。
絵を描く
料理の話からは少し離れるけど、企業でもまちづくりでも、事業を始めるときには「どんな成果を求めるか」を明確にする。これを”絵を描く”と表現される。現場を知らない人は、具体的なイメージが沸かないので絵を描くのが難しいらしい。なんとか企画書のカタチを作れたとしても、イメージ出来ないのである。現場との乖離はこうして起きているのだろう。かつて掛川市には名物市長がいて、とにかく現場へ足を運んで一緒に汗をかけと言い続けた。よくよく考えてみれば、時間をかけて現場にその身を置くことはとても”合理的”なのだ。
ある工芸作家は「表現と技術は不可分で一体だ」と言った。技術をギリギリまで突き詰めていくと、もう一歩先がぼんやりと見えてくる。もしかしたら、新たな可能性が開けるかもしれない。という感覚は、技術を突き詰めたものにしか見えない世界だという。一方で、技術は作家の心情を表すための道具でしか無い。「こんな難しいことが出来るんだよ」というアピールは、興味を持つきっかけにはなるかもしれないけれど作品の本質ではない。
実務を積み上げていくと、技術の高まりとともに新たな世界が見えてくることがある。絵を描くときに実務が大切なのは、現実と可能性の具体的なイメージが出来るかどうかに影響するからだ。
絵に描いた餅
そして、最も多いのがこれだ。どんなに素晴らしいアイデアを思いついたとしても、実行しない。実行しない限り永久に実現しないのは当然なのだけど、成功するにせよ失敗するにせよ体感が育たないのだ。「頭ではわかってたつもりだったけど、やってみたらやっぱり大変だった。」なんて経験は、何度もある。時々「そりゃそうだよ。わかってたことじゃないか」などとしたり顔で言われると辟易してしまうのだが、それは「頭でわかったつもりになっている」ことと「大変な思いをする」ことは全く違うことを知らない人に言われたくないと思うからだ。
おいしくもなさそうな餅の絵は、絵のままで、米を蒸すこともせず、搗くこともしない。当然食べられないから、味のことも調理のことも何もかも、語ることが出来ない。なのに、なぜか論評する会議が開かれるのだから、世の中はとても不思議だ。
言葉にならない智慧
数冊の本で勉強した程度だが、どうやら日本は身体経験を重んじる傾向が強いようだ。たとえば、仏教の「不立文字」「無分別智」「愚」などの思想は、「わかった!」という感覚に”とらわれない”ことを説いている。とても興味深いのは、身体知礼賛というわけではなく、徹底的にロジカルに考えることも重視しているというのだ。
そういえば、そもそも仏教はロジカルな宗教なのだ。とにかく理詰めで考え尽くされた哲学だと言っても良い。ロジックを突き詰めた結果、言葉だけでは到達できない領域を見出した。だからこその身体性なのだろう。
世界中のあらゆる現象や仕組み、心の動きなどを「絡み合った情報」だとする。これの総量が100だとすると、言語で表現することが出来るのは半分もないかもしれないのじゃないだろうか。などと、個人的には思っている。だとするなら、残りの部分は可能な限り五感で感じるしか無い。見たり聞いたりするだけでなく、匂いを嗅いだり、触れたり味わったりする。そうした感覚の延長上で、体を動かして体感するということに繋がるのだろう。
今日も読んでいただきありがとうございます。
なんとも説教臭い話になってしまったなぁ。だけど、結構大事なことだと思うんだ。ぼく自身が論理に偏っていて、子供の頃から「理屈っぽい」なんて言われてたんだけどさ。だからこそ、理屈じゃどうにもならない部分があると思っていて、どちらが良いという話じゃなくて、両方大切なんじゃないかって思うようになったんだよね。