「History does not repeat itself, but it rhymes」アメリカの作家マーク・トウェインが言ったとされる言葉だ。「歴史は繰り返さないが、韻を踏む」といった意味である。実際にマーク・トウェインが言ったかどうかは定かではないのだけれど、なかなか示唆に富む表現だ。とは思うよね。
確かに、社会情勢や環境は時代によって全く違うのだから、完全に繰り返すということは無い。当たり前といえば当たり前だ。ただ、要素を抽出して抽象化してみると同じ様な現象が起きているんだよね。ここがとても大切なポイントなんだろうな。
以前、このブログでもこんな事を書いた。ある程度未来を予測するためには、現在を客観的に把握する必要がある。そして現在を把握するためには、どのようにして現在のカタチになったのかを過去の文脈から紐解く必要がある。というようなことだ。論理的か直感かはわからないけれど、過去千年を学んだ人のほうが、50年くらい先の未来を予測しやすいということは、多くの人が言っている通りなのだろう。
韻を踏む。これだよね。歴史は繰り返すと考えると、過去の事象に縛られがちなんだ。過去にこういった事があったから、今回も同じ様な挙動をするはずだ。そう考えてしまう。でも、実際は違うよね。
100年200年前の歴史的事実と似たようなことは起きるかもしれないけれど、状況が違いすぎるもの。スマホもインターネットもなければ、電話だってあやしい。コミュニケーション手段一つとっても全く事情が違う。言語の理解だって、日本において外語を理解している人は少ないし、海外の事情を把握している人も少ない。交通手段だってそうだよね。自動車なんて無くて、かろうじて蒸気機関車や蒸気船が登場していたくらい。電気は張り巡らされた始めた頃だろうけれど、ガスも水道もまだ整備されていないし。地球全体の人口も違うし、教育の概念も違うのだ。
似たような現象に出会ったとして、その時には成功した方法があったとして、同じことを行っても意味がないということになる。一旦抽象化して考える。当時の人達が、どの様な状況に置かれていて、その中からどの様な思考の末に判断するに至ったのか。それら全てを網羅して材料にすることが必要なんだろうと思うんだよね。だから、そういう意味で政治を中心とした歴史だけを学んでいてもしょうがない。文化や芸能、地理、気候なんかも網羅している必要があるんだろうと思うんだ。
詳細を把握するのは骨が折れる。けれども、なんとなく雰囲気をつかんでおくだけでも学ぶのが良さそうだろうとは思うよ。
これ、もっと短い歴史の中でも同じことが言えるんじゃないかと思うんだ。人生経験。これもまた、歴史だよね。大きな流れの歴史じゃなくて、個人の経験の積み重ねによる学習。数十年の人生の中でも、同じ様な現象に出会うことがある。確かにあるよね。またこのパターンかって。その時に、過去にこうだったから、次もこうだって考えちゃうとチグハグな判断をしかねない。ほんの1年前でも状況は変化するんだから。でも、1年位だと、状況が変わっていないような気がしちゃうんだよね。また今年もこの日がやってきたなあってくらいの感覚だから。パンデミックみたいに、社会が大きく変容する出来事があるからこそ、その前と後という違いを体感しているくらいのものだ。
老害という言葉を聞くのだけれど、そんな人ばかりではない。この違いは、どうやら「過去の出来事の抽象化」と「抽象化したモノゴトを具象に当てはめる」ということが出来るかどうかなのかもしれない。老害という言葉になって現れているのは、学んだ量が多いからだ。人生経験という歴史の学びにおいて、若手はベテランに遠く及ばない。当たり前だ。抽象化せずに、現代に合わせて韻を踏まないからチグハグな事を言ってしまう。案外、こんなところが原因なんじゃないかな。
このロジックで考えると、どうやら年齢は関係なさそうだ。マクロでもミクロでも歴史に学んだことがらを、抽象化して現状に合わせて考える。つまり韻を踏むことが出来るかどうか。誰にでも起きうることなんだろうな。
今日も読んでくれてありがとうございます。抽象化して考えるって、結構難しいぞ。その手順を言語化しようとすると、言葉に詰まってしまう。今のところ直感でやっているからなあ。強いて言えば「似ている」という感覚かな。ビジネス書で学んだことを、部活やバンド活動に置き換えてみる。そんな空想なら、よくやっていたんだけどね。これが良いのかどうか。それこそ、個人の経験だからなんとも言えないんだよね。