今日のエッセイ-たろう

ガストロノミーな3日間 2026年2月25日

ガストロノミーシンポジウム掛川2026を終えて、二晩が過ぎた。終えてみればあっという間だったけど、その前の二晩は、やっぱり特別なものだった。ビフォーアフターで、何かが違っている感覚がある。

細かく振り返るのは別の機会にするとして、今日はざっくりと思い返してみることにする。

今回のテーマは「人の営み」だった。それを踏まえてフォーカスしたのが中間事業者。商流の中間にある加工や物流、小売といった事業者はあまり注目される機会がない。けれども、彼らの存在なくして私たちの食生活は成立しないのである。これは、共同開催のKoji The Kitchenの主催である村井さんとの会話の中で自然と定まった視点。今回の企画が固まるよりも前から二人の間で繰り返されてきた会話には、常に話題に登ってきたことだ。

人の営み、「手」ロワール

共催企画のきっかけを作ってくれたヒラクさんは、日本のテロワールは「手」ロワールだと表現した。まさにぴったりだと思う。これは、以前から感じていて、時折主張していたこととも共鳴する。

お茶や日本酒など、産業を盛り上げようと各地域がいろんな取り組みをしている。どういうわけか、そうした検討委員会に呼ばれてしまうことがあるのだけれど、必ず検討の俎上に上がるのがテロワールという言葉だった。日本酒なら水田、お茶ならば畑にフォーカスすることでブランディングを進めようというのだ。そして、毎度それに反論して、いつの間にか呼ばれなくなっていく。そんなことを何度か経験していた。

テロワールというのは、ワインのブランディングのひとつではある。ブルゴーニュ地方のワインの価値を象徴する考え方で、本質的には「土」を意味している。だからといって、お茶や日本酒も土に注目しなければならないということにはならない。

そもそもブランディングとして機能するのは、その商品の強みや特徴が根っこにある。ブルゴーニュワインがテロワールを謳うのは、そこに強みがあるからだ。真似をするならば、自らの商品の強みを見定めてそこにフォーカスするのが良いだろう。他人の強みを真似て、自分の長所を見ないのはもったいない。

商品やその作り方、産業構造や歴史背景を勉強していくうちに、日本のものづくりは「人」にあると感じた。ある時、日本酒醸造家とトークセッションで一緒になることがあって、「日本酒は自然の酒ではなく、技術の酒だ」と言ったことがある。関係者がテロワールでブランディングしようとしていたのは聞いていたのだが、反発心もあって言ってみたのだ。すると、醸造形からは「よくぞ言ってくれた」と喜んでもらえた。確信に変わった瞬間だった。そして、今回の3日間ではっきりした。日本のものづくりは、人の介入が大きい。

だからといって、自然を征服するというスタイルでもない。自然と対話し戯れるようにしてものづくりを行う。そして、「たまたま出来た」ではなく再現性を高めることを目指してきた。面白いことに、人の思い通りにものづくりをするというのに、いちいち自然と対話して自然と共同作業をするような仕草が随所で見られるのである。話を聞き、実際にものづくりの現場を巡り食べてみることで、感じたことである。

日本のものづくり

ものづくりには、大きく2つの特徴が現れているように感じた。ひとつは、垂直軸の繋がり。もう一つは、ものづくりの楽しさだ。

品質を安定させるためには、ひとつの基準が必要だ。醤油や味噌は味が変わってしまうと、料理の味が変わってしまうし、料理人としてはとても面倒である。そのためには、基準を設けて、大きく品質が変わらないことが求められるのである。もちろん、その原料となる種麹も同じ。しかし、現代のように科学的な分析ができなかった時代は、どうやって品質を一定に保っていたのだろう。この問いは、村井さんの糀屋三左衛門を訪問した時に感じたことだ。600年前はどうやっていたのだろう。おそらく、世代を超えて継承してきたのだろうと思う。親から子へ、そして孫へ。常に複数人で味を守っていくのは、料理人の世界と似ている。

こうした「安定性を求める」という姿勢は、おそらく「調理の社会インフラ化」が早くから進んできた結果だろう。西洋におけるスープのベースは、野菜や肉を煮込むことで作るのが一般的で、その作業はキッチンで行われる。これに対して、鰹節や昆布が厨房で作られることはない。これは、社会の仕組みで調理を分担していると言える。醤油や味噌をソースだと思えば、やはり同じである。つまり、次の人にバトンタッチするために「安定している」という信頼が必要なのだ。

ものづくりは本来楽しいものだ。少なくとも、職人にとっては楽しいと感じているポイントが有る。けれども、彼らが楽しさを感じないものづくりというのも存在している。それは、意図しないものを作らされることである。仮に「売れるから」と言われても、質の低いものやポリシーと合わないものを作らされるのは、ハッキリ言ってストレスなのである。このストレスが続くと、ものづくりの職人はやる気を失っていく。義務感で続けるかもしれないけれど、自由を奪われた感覚がある。

一見相反するように見える「安定性」と「自由なものづくり」が両立しているのが、日本のものづくりなのかもしれない。短期的に見れば経済合理性には合わないかもしれないが、長らくこのスタイルで豊かな食文化を築いてきたのだから、長期的に見れば意味があるように思える。

さて、来年もガストロノミーシンポジウムを開催すると宣言してしまった。が、別に追い込まれた感覚はない。もう、とっくに続ける覚悟は出来ているからだ。次はどんなチャレンジをしようかと、今から妄想を始めているのだけれど、きっと直前になってバタバタするんだろうな。

今日も読んでいただきありがとうございます。

そうそう。当日もちょっとだけ発言したのだけれど、ガストロノミーシンポジウムみたいなローカルに注目した取り組みが全国で広がってほしい。商標登録をしているわけでもないし、誰がやっても良いと思う。勝手にやればいいし、協力が必要なら喜んで協力する。
ちょっとずつ、感じたことを整理して書いていくことにするよ。

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武藤 太郎

1978年 静岡県静岡市生まれ。掛川市在住。静岡大学教育学部附属島田中学校、島田高校卒。アメリカ留学。帰国後東京にて携帯電話などモバイル通信のセールスに従事。2014年、家業である掛茶料理むとうへ入社。料理人の傍ら、たべものラジオのメインパーソナリティーを務め、食を通じて社会や歴史を紐解き食の未来を考えるヒントを提示している。2021年、同社代表取締役に就任。現在は静岡県掛川市観光協会副会長も務め、東海道宿駅会議やポートカケガワのレジデンスメンバー、あいさプロジェクトなど、食だけでなく観光事業にも積極的に関わっている

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