今日のエッセイ-たろう

所作はことば、作法は文法──お椀の持ち方に、1000年の合意がある。 2025年8月20日

作法とかマナーは、一体どこからどうやって形成されたのだろう。「◯◯流」なんて看板はあるけれど、それだってゼロから突然生まれてきたわけじゃないはずだ。何の慣習もないところから「私がこう考えるから、こういう動作をすることに決めたんだ」なんて言ってみても、誰も従わない。ある程度の“合意”が地盤にあって、それを体系的にまとめたものだと考えるのが自然だろう。

所作は言葉、作法は文法

言葉に置き換えると、わかりやすい。日本語という言語を誰が使い始めたのかなんて、誰にもわからない。口から音を発して、その音がなにを表しているのかを相手も理解する。ただそれだけの現象なのだ。最初から文法の教科書があったわけじゃない。集団の中で“なんとなく通じる音”が積み重なって、やがてルールとして形になった。

言葉というのは、長い歴史の中で徐々に変化していくものだ。かつては敬語だったものが、今では下品だとされることもある。ダメだったものが許容されることもある。どれほど声高に「それは間違っている!」と叫んだところで、大勢が合意してしまえば“通用する言葉遣い”にはなるだろう。

作法も大きく変わってきた。現代では、ご飯に箸を突き刺して立てるなんてことは、仏前にお供えするときくらいのものだ。だけど、平安時代には、それが正しい作法だった。正しいからこそ“供物”に採用されたのだろう。そのうち仏教と儒教が融合して、先祖を祀る仏壇が一般化する。そうすると、「箸を立てるのはなくなった人のもの」ということになって、「縁起が悪い」とされるようになる。ざっくり言えば、そんな経緯だったのだと思う。

変わらない美の合意

一方で変わらないものもある。長い間、日本語はずっと日本語らしくあり続けていて、一度も英語のようにはなっていない。明確に主語がなくても文章は成立するし、動詞は文末になることが多い。同じように、日本らしい作法はずっと日本らしくあり続けている。

味噌汁やすまし汁などの汁物は、当たり前だけれど「汁」が主役だ。匙やレンゲを使わないから、左手でお椀を持ち上げて食べることになっている。厳密な研究じゃないけど、平安時代から現代まで変わらない所作だ。飯碗や汁椀を手で持ち上げずに顔を近づけて食べる姿は「犬食い」と呼ばれて、無作法とされてきた。

お椀の持ち方にも作法がある。人差し指で引っ掛けて持ち上げるのは無作法とされていて、揃えた4本の指の上にお椀を乗せて親指で縁を支えるのが“美しい”とされている。そう、「美しいかどうか」というのも大切なのだ。自分だけが良いというわけではなく、「こういうのが美しいよね」という“合意”が必要。それが集団としての「文化」なのだろう。

箸を舐める。肘をつく。寝転んで食べる。食卓に食事に関係ないものを置く。などなど、いろんな作法があるけれど、それは「美しい日本語」でお話しましょうというのと同じ意味で「美しい所作」で食べましょうということだろう。

「そんなの関係ない、食事くらい好き勝手に食べさせて欲しい」という声を聞くこともある。だけど、それを認めちゃうなら「おいコラ!」と話しかけられても、笑顔で受け入れなきゃならないことになる。所作とは、言葉に頼らないコミュニケーションツールなのだ。作法っていうのは、所作の美しい使い方。言葉でいえば“美しい文法”みたいなものだろう。

言葉遣いも応対もそれなりに丁寧なのに、無作法な方がいる。食事に限らず、ノンバーバルコミュニケーションがおろそかなのだ。美しい所作を知っている人にとっては、とてもチグハグな人に見えるし、場合によっては信用を失うこともあり得る。ピンとこなければ「所作」と「言葉」を入れ替えてみると面白いかもしれない。所作はまるで茶道のお点前みたいに美しい。なのに言葉遣いがチンピラっぽい。そんな人がいたら二度見してしまうかもしれない。だけど、逆は実際に存在しているのだ。

所作を学び機会はあるか

美しい言葉を自分が完璧に操れなくても、美しい日本語を耳にすれば『ああ、いいな』と感じることはできる。それこそ教育の力だろう。所作も同じで、知らないのは“学ぶ機会がなかったから”という面が大きい。それが家庭で行われるべきなのか、学校で行うべきなのかはわからないけれど。

先日、こんなことがあった。
ある客様から「汁物を食べたあと、お椀の蓋はどうすればいいですか?いつもわからなくて迷ってしまうんです。」と質問があった。蓋の始末についてご案内したのだけれど、それよりもお椀の中身が気になった。椀種(具材)は食べてあるのだが、汁を飲んだ形跡がないのだ。おそるおそる尋ねてみると、どうやらお椀を持ち上げずに食べたのだそうだ。

どうしてこんなことになったのかと言うと、「器を持ち上げるのはマナー違反」とテレビで聞いたらしい。テレビの影響力は絶大だ。だけど、それは西洋料理の話。でもそれを日本料理に持ち込むのは、“日本語をフランス語の文法で話す”ようなもの。どこかでチグハグなことが起きてしまう。

それぞれの文化圏にそれぞれの言語があり、それぞれの慣習や考え方がある。国粋主義的に日本の食文化こそが唯一絶対というつもりはない。それこそ、愚かな行為だろう。むしろ、日本には日本の美しさがあって、それをちゃんと感じられるからこそ、その他の文化圏の美しさを認められるようになるのではないかと思っている。違う文化を知って、「そうなんだ。それも良いね。」とフラットに言える関係が良いと思う。この時代に、「わが文化こそ世界基準」だなんて、ちょっと時代遅れの“帝国主義ごっこ”だろう。

今日も読んでいただきありがとうございます。個性が重視される時代だし、個々の美意識は多様だ。そういう多様性は、ぼくとしても大歓迎だ。だけど、同時に“合意された美”というのも現実に存在する。道徳みたいなものだよね。で、ぼくらはうっかり言葉にばっかり目が言ってしまうらしいけど、所作についてももう少し注意を払っても良いんじゃないかな。個人としても、社会全体としても、ね。

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武藤 太郎

1978年 静岡県静岡市生まれ。掛川市在住。静岡大学教育学部附属島田中学校、島田高校卒。アメリカ留学。帰国後東京にて携帯電話などモバイル通信のセールスに従事。2014年、家業である掛茶料理むとうへ入社。料理人の傍ら、たべものラジオのメインパーソナリティーを務め、食を通じて社会や歴史を紐解き食の未来を考えるヒントを提示している。2021年、同社代表取締役に就任。現在は静岡県掛川市観光協会副会長も務め、東海道宿駅会議やポートカケガワのレジデンスメンバー、あいさプロジェクトなど、食だけでなく観光事業にも積極的に関わっている

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