汎用性の高いものはとても便利だ。カジュアルでもビジネスシーンでも着用できるジャケットとか、水陸両用の靴とか、魚をさばくのにも野菜を切るのにも使える包丁とか。とっても便利だから、ちょっと使う分には良いよね。ただ、ちょっと残念なこともある。カジュアルに寄せたジャケットは、やっぱりフォーマルな場では浮いた存在になる。革靴っぽいゴム靴は、野暮ったいし蒸れる。魚も捌けて野菜を切るのにも使える包丁は、桂剥きには不向きだし、ちょっと大きな魚だと歯が立たないなんてこともある。便利であることと、どっちつかずであることはセットになっているのだろうか。
お金なんてものは、そのものが道具として使えるわけじゃないけれど、多くのものと交換することが出来る。交換を含めて考えれば、おそらく最も汎用性の高いツールだ。他にも、石油などの化石燃料や電気といったものも、エネルギーとしてはとても汎用性が高い。物を動かしたり、熱したり、冷やしたりと、エネルギーとしては色々と使いやすくて、なんとも便利な存在だ。
人類が手にしたエネルギーの一番最初は、当然ながら人力。自分の体を動かすのが最もシンプルである。そして、自分以外の人力を使い始めるようになって、それが労働者という存在を生み出したし、奴隷制度まで生み出した。地域や社会によって様々だけど、「使う・使われる」の関係だけでなく「互いに労働力を提供し合う」という共同体もあった。
人力以外のエネルギーが実用化されるのは、紀元前の中国が知られている。家畜の農耕利用だ。畑を耕したり、木をこいだり、物を運んだりと様々に活躍している。ヨーロッパや日本では長らく見られなかった利用方法だから、もしかしたら遊牧民との交流が関係しているのだろうか。
人力と家畜。これらを動力として比べたとき、家畜のほうが圧倒的に力がある。あるんだけど、それを駆動させるための燃料コストが高く付く。人の場合は、どうせ生きていくのだから労働コストと生活コストが一緒なのだ。働かなくても必ず何かを食べている。家畜の場合には、人間が世話をして餌を提供するという手間が発生してくる。どうもこのあたりでエネルギー利用の分岐がありそうだ。まぁ、古代ならばそのあたりに放牧しておけば勝手に育っていったかもしれないけど。
本格的に自然エネルギーを使い始めたのはいつ頃だろうか。起源は、現代のトルコあたりで、紀元前1世紀頃から使われていたらしい。これが世界中に広まって、日本には7世紀初頭に伝えられたそうだ。水車の利用は、人類史上でも大きな転換期だったはずだ。なにしろ、ほとんど初期投資だけで動力を利用し続けられるのだ。もちろん、メンテナンスも必要だし、ちゃんと使うためには色々と働く必要があるんだけど、牧草を集めるようなコストがかからない。基本的に水が流れ続けていれば、エネルギーは使い放題である。
ただ、水車のエネルギーは汎用性が低い。とにかく、設置できる場所が限定的。川がなければ始まらないし、そこから遠くまでエネルギーを伝達することは難しい。化石燃料なしで経済発展を果たした江戸時代の日本産業が、どれほど水の恩恵を受けていただろうか。仔細に調べたことはないので明言できないけれど、もしかしたらそれを支えてきたのは数多くの水車だったかもしれないなどと妄想することもある。
水車に比べると、風車のほうが比較的場所の制約が少ないか。全く不向きのところもあるけれど、基本的にはどこでも風が吹くことはある。めちゃくちゃ不安定だから、実用的ではないかもしれない。風の谷みたいなところなら、ずっと風車が回ってくれるだろうけれど、それは水車と同じだ。
と、ここまでエネルギー利用についてざっくり振り返ってみると、はたと気がつくことがある。一部を除いてだが、過去に活躍してきた水車や風力といった動力は、そのまま動力として使われることがほとんど無い。わざわざ、電気に変換しているのである。もちろんその方が使いやすからに決まっているんだろうけど、電気に変換しない利用方法って残されていないのだろうか。
素人が考えるようなことだから、誰かがとっくに考えていて、その上で判断されたのだろうとは思う。けど、動力のベースを水力にした工場って出来ないものだろうか。もうね、電力に置き換えないで物理的にそのまま使うみたいなこと。風力もそうだけど、上手く使えば工場内の空調くらいには使えそうな気もするんだけど。うまいことハイブリッドになったりしないかな。などと妄想してしまう。
今日も読んでいただきありがとうございます。なんかね。間にお金を挟まなくても良いんじゃないかな、って思えることもある気がするんだ。頑張って働いて、お金を集めて食料を買う。究極的には食料生産をすればお金を介在させなくても生きていくことだけは出来るんだよね。かなり乱暴な極論なんだけどさ。でもね。そこからよくよく考え直してみるという姿勢もあっていいと思うんだ。