今日のエッセイ-たろう

「ご飯がないとご飯を食べた気がしない?」〜主食ってなんだろう。 2025年9月19日

「ご飯がなくちゃ、ご飯をたべた気がしない」
なんだかトンチみたいなセリフだけど、妙に理解できてしまう。これ、いつ誰に言われたんだっけな。忘れちゃったけど「食事にはご飯が欠かせない」って、そう言いたかったはずだ。

世の中には、ご飯の出番がない食事があるらしい。もちろん、そのくらいのことは知っていた。だけど、どうにも実感がなかった。どれだけ、お米に執着していたというのだ。後に、食文化の歴史を学ぶようになってわかったのは、個人的な感情じゃなくて文化的なミームだということ。どうやら、日本ではお米に対する以上なほどの執着心を持ち続けてきたようだ。

稲作の歴史

稲の原産地は中国の南部、長江の上流域だ。紀元前4500年頃には、日本に稲が伝わったのではないかと推測されている。日本最古の水田の遺跡は紀元前300年ころだから、それまでの間はどのくらい稲作をしていたかはよくわからないけど、米そのものは食べていたのだろう。たぶん陸稲だ。現代日本人のほとんどは“稲を育てる=水田”だと思っているから、陸稲といわれてもピンとこないかもしれない。あるのだよ。麦のように畑で育てる稲が。

日本の稲作は、収量の多い水田と手間のかからない畑作の両方があるのが普通だったんだ。そのうち、土木技術が発達して水田をたくさん作れるようになったから、米がたくさん取れる水田のほうが多くなっていった。水田には水が必要。だから、山間部に水田を作るほうが都合がいい。平野部はけっこう水浸しの所も多いし、ちょっとしたことで水の流れが変わってしまうから、水田には向いていなかったんだよね。

日本人と米

主食っていうのは、だいたい1種類にはならない。世界中のどの時代のどこの地域を切り取ってみても、“米だけ”とか“小麦だけ”なんてことはないのだ。日本だって、ヒエ、アワ、キビ、ソバ、大麦などを主食として扱ってきた歴史は長い。米も含めて、どれもこれも同時に主食なのだ。現代でも、パンやパスタが、米ではないからという理由でおかずの扱いにはならない。

理屈の上ではそうなんだ。”主食は主食”、それはみんなわかっている。
わかっているはずなのに、実際にはラーメンやお好み焼きを”おかず扱い”してしまう。これが、日本の食文化の強烈に面白いところなんだよ。

強い“米への執着”は、他の主食があっても変わらない。そして、近代になってそれが加速することになった。
明治時代には、政府から「日本人とは米を食べる民族だ」と強調されて、それが国民意識を育てることになったし、米偏重の農業政策によって「ひとつの主食」という概念を作り上げた。「主食は米だけ」という仕組みにしてしまえば政府としても管理しやすい。大量生産・大量流通のレールに乗せやすかったわけだ。こうした効率化のおかげで、農業従事者が減っても都市生活者の食をまかなうことが出来るようになったんだから、工業立国のための仕組みだったのだろう。

栄養学的に「一汁三菜が良い」謳われるようになったのは20世紀初頭のことだ。「主食=炭水化物、主菜=タンパク質、副菜=ミネラル」というわかりやすいモデルを作って、教育政策に取り込まれてきた。
こうして「食文化のOS書き換え」が行われて、その時代の後に生まれたのが現代人だ。

執着と思い込み

執着の源は何だろう。別に、米じゃなくてソバでも麦でも良かっただろうに、なぜか米なんだ。生産効率が良いからなのか、それとも弥生人の元になった渡来人の故郷を思う気持ちの現れなのか。もしかしたら、ただ単純に“美味しい”からなのかもしれない。執着というよりも、「強烈な憧れ」だったのかもしれない。
とにかく、その感情とか感覚は、世代を超えて継承され続けてきたものである。

これと、“単一の主食”という考え方とは別の話。どうもいっしょくたにされているところがあるようだけど、少し冷静になって観察するのが良いと思う。
時々「日本人の米離れ」というキーワードで語られる記事などを見かけるけれど、ほとんどの場合で槍玉に挙げられるのはパン食だ。だけど、米の消費量減少分だけパンの消費量が増加したというデータはどこにも存在しない。実際に増えているのは肉や脂質のほうだ。脂質は、炭水化物に比べて高エネルギーだ。同じ重さで比べれば、脂質のほうが圧倒的にカロリーが高い。結果として炭水化物の消費量が減るのは当たり前といえば当たり前なのだ。それでもパンやパスタなどが米の敵のように扱われてしまうのは、もしかしたら主食はひとつという感覚があるからなのかもしれない。そして、米に“日本人としてのアイデンティティ”を感じていて、欧米的なパンに対抗心を持ってしまうのかもしれない。

均一化のリスク

一種類の主食に偏重した社会は、食糧自給の意味でとても脆弱だ。19世紀のアイルランドで発生したジャガイモ飢饉は世界的にも顕著な例だし、日本でも天明の飢饉がある。古くは奈良時代から、飢饉対策としてソバや麦の栽培が奨励されていて、江戸末期にも高野長英が救荒二物考という本を著している。これらの歴史的事実は、「均一化は環境変化に対して脆弱だ」と伝えてくれる。
当然、現代なら食料安全保障の問題になる。

文化的な側面でもアイデンティティが硬直化する可能性もある。例えば「日本人=米」こそが正統派という感覚がある。強弱の違いはあったとしても、そこそこの割合で実際にいるのだ。その現れとして「パンじゃお腹いっぱいにならない」とか「お菓子みたいなもの」とか言う人がいるわけだ。

別に悪くはないけれど、多様な視点を捨ててしまうことになりかねない。食文化というのは、もっとしなやかで強いものだと思う。頑迷にひとつの考えに縛られるのではなくて、一本筋の通った感覚を共有しながらも、あらゆるものを包摂する事ができるものだろう。

この柔軟性はとても重要で、自然環境や社会的構造が変化したときに、自らの生活スタイルを合わせていくしなやかさに通じている。もっとシンプルに言おう。気候変動でどれほど食材が変わったとしても、日本食文化は新しい和食を生み出し続けられるのだ。

極端に聞こえるかもしれないけれど、硬直化はやっぱりリスクだと思う。食文化には”しなやかさ”が欠かせない。

今日も読んでいただきありがとうございます。

ちょっとわかりにくかったかなあ。強く憧れるのは良いけど、固執しすぎるのはよくないじゃないかなって、思うんだ。それと、こういう視点で考えてみるということも大切。いろいろな視点で考えてみて、その中からピンとくるものを選べば良いんだよ。やっぱり米偏重が良いっていうなら、それもあっていいしね。

タグ

  • この記事を書いた人
  • 最新記事

武藤 太郎

1978年 静岡県静岡市生まれ。掛川市在住。静岡大学教育学部附属島田中学校、島田高校卒。アメリカ留学。帰国後東京にて携帯電話などモバイル通信のセールスに従事。2014年、家業である掛茶料理むとうへ入社。料理人の傍ら、たべものラジオのメインパーソナリティーを務め、食を通じて社会や歴史を紐解き食の未来を考えるヒントを提示している。2021年、同社代表取締役に就任。現在は静岡県掛川市観光協会副会長も務め、東海道宿駅会議やポートカケガワのレジデンスメンバー、あいさプロジェクトなど、食だけでなく観光事業にも積極的に関わっている

-今日のエッセイ-たろう
-, ,