今日のエッセイ-たろう

「社会に出たら理科は必要ない?」ー高校生の本音を読む。 2025年7月29日

「社会に出たら理科は必要なくなる。」そんなインパクトのあるニュースが、SNSなどでちょっとした話題になった。きっかけは、最近公表された「高校生の科学への意識と学習に関する調査」の結果である。ニュースって、タイトルも記事も「調査結果の一部」を切り取って伝えるためのもの。だから「ホントに見出しの通りなの?」と思うこともある。というわけで、実際の調査レポートを一緒に読んでみよう。

調査方法はアンケート、日米中韓の4カ国が対象になっている。対外比較なのか。米韓の対象者人数が少ないのが気なるけれど、これは許容範囲なんだろうな。学年別に見ると、1年生の比率が高いけれど偏っているわけでもなさそうだ。ふむ、調査の前提はこんなところか。では、中身を覗いてみるとしよう。

最初の項目は「科学への興味や関心」
科学そのものに興味はあるらしい。中国がぶっちぎりで科学技術への興味が高くて、日米韓の中では日本が高いけれど大差ないように見える。これは、実社会を見れば納得できる気がする。ここ20年ほどの中国の産業発展の原動力は、まさにデジタル技術。国として注力してきたというのもあるだろうし、そうした社会を見た若者が関心を持つのは自然なことだろう。そういう意味では先行した国が50%前後というのは健全なことのように見える。
比較的デジタル技術よりも、自然や人体科学への関心が高い傾向がある。これは興味深いね。そっちなんだ。なんでだろう。過去と比べた推移がわからないからなんとも言えないな。

部活動やクラブへの参加
想像通りスポーツが圧倒的に多い。次いで文化や芸術。理科系クラブやものづくりへの参加率は最下位か。これはぼくが高校生の頃の感覚なんだけど、「部活は授業ではやらないこと(広さ深さ)をやる」みたいなイメージを持っていたんだよね。楽しみな時間でもあったし、仲間との交流の場でもあった。この結果をどう解釈していいかわからないな。ちょっとモヤッとする。

好きな科目
数学が一番。というのは、どの国でもみられる傾向。その中では割合が低い方になる。理科系も低いな。だからといって国語が高いわけでもない。国語に関しては特に米中が高いのだけど、これはどういうことだろう。そういえば、今更気がついたんだけど、学問の進捗率って影響しないのだろうか。「難しくてついていけないから好きじゃなくなっって、簡単な方が好きでいられる」なんて仮説も考えられる。
外国語が好きという比率が低いのは、難しいからかもしれない。主に英語だと思うんだけど、日本ごとの距離が遠い。韓国の方が低いのもその現れじゃないかしら。

将来役に立つと思う科目
外国語と答えた割合が4カ国中で最も高い。それはそうだろう。現代社会では英語圏の人は外国語を学んだことがなくても、ある程度は海外で会話ができてしまう。グローバルでの活躍が求められている一方で、英語に対して苦手意識がある。必要と苦手の間で、好きという感情が目減りしているかもしれないな。
国語に対する意識が低いのは、この反動だろうか。これは個人的にも思うところがある。小難しいことを学ばせる割には、日常では美しい日本語を使えていないように見える。もう少し見直しても良いかもしれない。
情報と家庭科が他国を大きく上回っている。これは、「将来に役立つ」の視点の問題だろう。オリジナルの問題文がどうなっているかわからないけれど、「将来」が「キャリア」というイメージなのか「生活」を含めているのか。そのあたりの違いも気になるところだ。
逆に数学は米中よりも20ポイント以上低いし、理科系は更に低い。いずれも役立つと思われていないということだ。ニュースで取り上げられたのはこの部分か。

ここまでのアンケート結果を考慮すると、ふたつのことが考えられるかな。
ひとつは、「将来」「役に立つ」「興味」「好き」といった表現に対して、受け取り方が異なるかもしれないということ。言葉と感情やイメージとの繋がり方が違う。そんな違和感がある。アンケートの結果にも影響するだろうし、もしかしたら「根本的な世界の見方」に文化的差異があるかもしれない。
もうひとつは、「役に立つ」と「好き」のバランス。例えば音楽やアートは「好きだけど役に立たない」と思われているし、外国語や家庭科は「役に立つけど好きではない」という傾向がある。感情と実益とが、うまくリンクしていないように見える。

例えば「役に立つし好き」ということになれば、放っておいても勉強するんじゃないかな。ぼくは随分と年が上だけど、「たべものラジオ」で配信している内容は「社会の役に立つ」と思っているし、それを調べたり学んだりする行為自体も「好き」。だから、ポッドキャスト番組としてはかなり労力がかかっている方だと思うけど、それでも簡素化して楽をしたいとは思わない。この状態が生まれればベストなんだけど、そこに至るまでに様々な障壁が待ち構えている。ぼくらのような社会人であれば、時間や体力がそれだ。高校生ならば勉強し放題なのだけど、テストの点数を伸ばさなくちゃいけないという使命がある。テストが興味関心と合致していればいいけれど、そうでなければより多くの時間が必要になってしまう。

ぼくが最も課題だと思うのは、実社会と学問の接続性。世の中は、理科も社会科目も数学も国語もフル活用されている。もし、量子力学がなければスマホは存在しないし、化学がなければ料理研究も進まないし、農業生産力も向上しない。ただ、どことどこが繋がっているのかを知らないのだと思う。

以前、友人に「歴史って面白いかもしれないけど、意味がないと思っていて、だから興味がわかない」と言われたことがある。だから「何が面白いの?」って。その時どんな例を引き合いに出したのかは忘れちゃったけど、例えば掛川城と宿場町の歴史背景が現代のまちづくりに引き継がれていること、千利休の思想が近代の西欧列強と伍する原動力になったこと、みたいな話をした。彼は「おもしろい。そういう歴史なら興味ある!」と言い、掛川の歴史に詳しい人材の一人になった。

ぼくがこうした視点を手に入れたのは高校生の頃。幸いなことに、先生たちが道筋を作ってくれたのである。忘れられないのは化学の授業。

ある時、次の授業の持ち物として提示されたのは「スナック菓子」だった。パンでも良いし、中身は休み時間に食べちゃっても良い。必要なのはパッケージだと。翌日、授業が始まるとパッケージに書かれた「化学物質」を日本語で黒板に書き写すように指示された。一通り出揃ったところで、今度は先生が片っ端から分子式に書き換えていく。そして、それぞれの物質の特徴を解説していったのだ。黒板にあるもの全ての話が終わると、余った時間を使ってパッケージの素材やら制服やら、身近にあるあらゆるモノを「化学物質」として解説し出したのである。化学的に似ているものをグルーピングして、一見すると全く違うものが同じグループになって驚いたり、異色の組み合わせで合成できる意外な物質の話にキョトンとしたり。ぼくは、その授業が面白いのか、楽しいのかすら自覚がないままに引き込まれていった。そして、最後に聞いた言葉は「身の回りのものは、みんな化学物質出できている。これが読めれば、世界がもっといろいろ見えてくる」だった。

他にも、こうした人達が身近にいた。古代の人の感情にいちいちツッコミを入れながら、現代人との感性の違いを見せてくれた古文の先生。教科書を逸脱して、実体験とともに地層から産物や文化にまで言及した地理の先生。物理法則を説明するのに、家庭にあるもので再現した先生。歴史上の事例と現代の事例を重ねて、再現性と差分をとうとうと語った世界史の先生。
ぼくらの「身近な社会」との接点を提示し続けてくれていた。そんなふうに学びと出会えたのは、幸運だったと思う。でも、それはただ運が良かっただけ。

今日も読んでいただきありがとうございます。長くなったので次回に続きます。後半では、「学びと実生活の接点」から、もう一歩踏み込んで高校生の心理を読み解いていきます。アンケートから読み取る高校生の不安。科学は信じるに足るのか。

タグ

  • この記事を書いた人
  • 最新記事

武藤 太郎

1978年 静岡県静岡市生まれ。掛川市在住。静岡大学教育学部附属島田中学校、島田高校卒。アメリカ留学。帰国後東京にて携帯電話などモバイル通信のセールスに従事。2014年、家業である掛茶料理むとうへ入社。料理人の傍ら、たべものラジオのメインパーソナリティーを務め、食を通じて社会や歴史を紐解き食の未来を考えるヒントを提示している。2021年、同社代表取締役に就任。現在は静岡県掛川市観光協会副会長も務め、東海道宿駅会議やポートカケガワのレジデンスメンバー、あいさプロジェクトなど、食だけでなく観光事業にも積極的に関わっている

-今日のエッセイ-たろう
-, ,