今日のエッセイ-たろう

「飴食うか?」近代的コミュニケーションの知恵。 2024年7月20日

妻のバッグの中にはいつも飴が入っている。出先で子どもたちが「お腹が減った」と言い出したときに取り出すのも飴だし、ちょっとぐずったときにも飴が登場する。バッグの中で大きなスペースを専有することもないし、子どもたちも割と納得してくれるので便利なのだそうだ。

そういえば、祖母も飴を持ち歩いていた。他にも、ガムとか仁丹とか、なにかしらが入っていた。外出中には鞄の中のそれらが活躍したし、家にいるときにはミカンやせんべいがそれに代わった。もちろん、ぼくがずっと幼い頃の話だ。ぼくが成長した後もしばらくは「ミカン食うか」「せんべい食うか」と、訪れるたびに言われたものだ。しばらくして、ビールが仲間に加わったときは、祖母と二人で晩酌していたこともある。

幼い頃の記憶に、ぼくではない誰かに飴が手渡されたシーンがある。もう随分前のことだから、相手が誰でどんな状況だったかはぼんやりとしている。バスの中だったのか、それとも電車の中だったのか、はたまた児童館や図書館だったか。自宅ではなく、どこかの公共の空間だったと思う。飴を渡した相手は、見知らぬ幼い子供。当時のぼくと同じくらいだっただろうか。機嫌が悪かったのか、グズグズしては癇癪を起こしていたのだろう。で、やっぱり祖母はいつものように「飴食べるか」とニカッと笑った。その光景は覚えている。

ぼくにとっては、いつもの祖母の笑顔。ぼくや妹に向けられていたそれが、別の誰かに向けられただけ。だから、あまり違和感はなかったように思う。いつものことだから。

知らないおばさんに飴をもらったら、どう思うだろう。一緒にいたはずのその子の親はどう感じただろうな。

飴そのものを受け取ったことよりも、誰かに何かをもらったという行為そのものが心に残るような気がする。もし、ぼくが子どもと一緒に電車に乗っていて、子供が癇癪をおこしたら、きっと困ると思う。ぼくと子どもとのこともあるし、周囲の人へ迷惑がかかるんじゃないかって気をもむだろうと思う。そんなときに、飴をくれるおばさんは、どんな存在に見えるのだろう。実際に飴をもらう場面に直面したことはないのだけれど、嬉しいという気持ちよりも「ホッとした」という気持ちになるんじゃないかな。良いんだよ。大丈夫。そんなメッセージ。承認されたような感覚。

言葉で言ってもうまく伝わらないこともある。もしかしたら裏があるんじゃないかって勘ぐってしまうこともあるかもしれない。かといって、あんまり大層なものだと重すぎる。だから、飴とかガムみたいな小物ってちょうど良い距離感なんだろうな。物理的に物があるという行為の現れ。でも、決して高価でもない気軽さ。

文明開化と叫ばれて、東京府ではたくさんの他人と接する機会が増えた。百万都市だった江戸でも多くの他人とすれ違っただろうけれど、日常的に声を掛け合うコミュニティでは、そのほとんどが顔見知りだった。豆腐を売りに来るのも、イワシを買うのも、初めて会う人じゃない。

ところが、明治の牛乳配達はほとんど他人。それなりに家計を支えようと思ったら、1日中働き通さなくちゃいけなかった。しかも、産業としての資産の蓄積がない。学生や上京者の初期の仕事にはなったけれど、牛乳配達人は頻繁に人が入れ替わったそうだ。

生活圏に頻繁に他人が出入りする。そんな環境だからこそ、飴くらいの軽やかなコミュニケーションがちょうど良いのかもしれない。見て見ぬふりをするくらいの、そこにいることはわかっているけれど、素通りするようなコミュニケーションがあっても良い。ただ、小さなイベントとして小さなコミュニケーションもあって良いよね。

今日も読んでいただきありがとうございます。牛乳の近代史を勉強していて、ふいに祖母の飴のことを思い出したんだ。もうほとんど忘れていたんだけどね。そしたら、妻も同じことをしていてさ。こういうのって、関西だけのものじゃないかもよ。近代のコミュニケーションの知恵とか。飴買っておこうかな。

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武藤 太郎

1978年 静岡県静岡市生まれ。掛川市在住。静岡大学教育学部附属島田中学校、島田高校卒。アメリカ留学。帰国後東京にて携帯電話などモバイル通信のセールスに従事。2014年、家業である掛茶料理むとうへ入社。料理人の傍ら、たべものラジオのメインパーソナリティーを務め、食を通じて社会や歴史を紐解き食の未来を考えるヒントを提示している。2021年、同社代表取締役に就任。現在は静岡県掛川市観光協会副会長も務め、東海道宿駅会議やポートカケガワのレジデンスメンバー、あいさプロジェクトなど、食だけでなく観光事業にも積極的に関わっている

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