今日のエッセイ-たろう

そばにあらずとも、そばを名乗る。茶そば、胸を張る。 2025年8月8日

先日、お店で茶そばを提供したところ、お客様から「これって二八そばですか?」と聞かれた。「いえ、違いますよ」と答えると「じゃあ、十割蕎麦ですよね?」と。なかなか興味深い事例だ。

興味がありそうだったので、一通り“二八そば”や“十割蕎麦”についてお伝えした。諸説あるものの、「二八そばという名称の由来は販売価格」というのが最有力。江戸後期の市中では数字を使った言葉遊びが盛んだった。そんな中「蕎麦の価格は“二八の十六文”」という言い回しが流行する。これが「二八そば」のルーツだと考えられている。

随分と長い間価格が固定されていたのだけれど、幕末近くになって物価が上昇し、十六文では提供できなくなった。たまたま、そば粉と小麦粉の配合比率が2対8に近かったことから、そば粉の割合を表すようになった。この後の時代になって「十割そば」という新しい言葉が生まれている。元々、そば粉100%の麺は「生粉打ち」というのが一般的だったのだ。二八を配合比率ということに設定し直したことで、消費者も配合比率に注目するようになり、「十割」と表現する風潮が生まれていったという。

料理人視点で言えば、そもそも「二八」という配合比率の表し方には、違和感がある。普通は、“数の大きい方”から言うのだ。それに、「そば粉4:小麦粉1」と約分する方が自然。実際、江戸期の料理本を見ても「赤味噌三に対して白味噌二」と表記されている。わざわざ「白味噌四に対して赤味噌六」になんてへんてこなことはしていない。

商売としても違和感がある。江戸時代の蕎麦屋では、生粉打ちそばが主流。小麦粉を混ぜることで食感が良くなり、ブツブツ切れなくなったというのはイノベーションだった。けれども、やっぱり「生粋」を愛する江戸っ子にとって、生粉打ち蕎麦こそがそば切りだったそうだ。そんな状況で、わざわざ「小麦粉混ぜてます」アピールするものなんだろうか。

このあたりのことは、ポッドキャスト「たべものラジオ」で詳しく取り上げている。興味があればそちらを聞いてみて欲しい。

さて、市販されている茶そばにはほとんどそば粉が入っていないことをご存知だろうか。商品によってはそば粉が使われていないものだって有る。そうすると、「それじゃあ蕎麦とは言えないじゃないか」という人が出てくるから不思議だ。そんなことを言われてしまうものだから、仕方なくちょこっとだけそば粉を入れているというのがメーカー側の本音じゃないだろうか。

まず第一に、茶そばは「茶の風味」を楽しむのが一番の目的。だから、香りの強いそば粉が多いと香りがぶつかってしまう。簡単に言ってしまえば、そば粉が邪魔になるのだ。小麦粉のおかげで得られるツルツルとした食感も、どういうわけか抹茶と相性が良いらしい。

実は「茶そば」という名前には、ちゃんと意味があると思っている。たしかに「そば粉が入っていないなら“茶うどん”や“茶ひやむぎ”でもいいじゃないか」と思わなくもない。けれども、そば切りくらいの太さがちょうど良かったのだろう。太すぎると茶の風味が強く出すぎるし、細すぎると茶の風味が感じられない。

そば切りに近いサイズ感だと、ラーメンがある。茶ラーメン…。どうだろう、イメージが合わない気がするのはぼくだけだろうか。ラーメンと聞いてイメージするのは、鶏出汁や豚骨だしなどの油分の多いスープだ。だけど、茶そばはそばつゆで食べてもらいたかった。その方が茶の風味を楽しめるだろうから。だから「そば」という名称を使ったと。まぁ、そんなことが明示されているわけじゃないけれど、そういった心理が働いて自然に「茶そば」に落ち着いたのだろう。

「そば」とは、そば粉を使ったものだけをと指すわけじゃない。だいたい、ほとんどの人は「そば」と聞いたら、そば粉を使った麺を想像しているのだろうけれど、蕎麦というのは「植物名」だ。そば粉を使った麺料理の名前は「そば切り」である。だけど、そば切りが流行して早い段階から省略されて「そば」と呼ばれるようになっただろう。そのうち、江戸の町は蕎麦だらけになって、「そば」といえば「麺」、「麺」といえば「そば」ということになった。

やがて、明治から昭和にかけて、中国からラーメンやチャーメンが伝えられる。東京人にとって目新しかったこれらの料理は、日本風の名前がつけられる。そうすることで、その料理がどういうものかを端的に理解しやすかったのだ。ラーメンは「支那そば」、チャーメンは「焼きそば」と呼ばれることになる。そば粉を使っているわけではないけれど、「チャイニーズヌードル」「フライドヌードル」といった程度の意味合いで認識されていった。つまり「蕎麦様のもの=麺」を「そば」と言い表したのだ。

「そばを食べる」と言うとき、この言葉は2つの意味を持っている。「蕎麦という食材を食べる」か「麺を食べる」である。起用にも日本人はこれをいい感じに使い分けてきた。こういった事例は他にも有る。ごま豆腐も卵豆腐も、「豆腐」ではなく「豆腐様のもの」だ。昆布茶もハーブティーもチャノキの葉である「茶」は使われていない。そんなものなのだ。

だから、茶そばにそば粉が使われていなかったり少なかったりしたとしても、「蕎麦と名乗るのはけしからん」ということにはならないのだよ。あえて言うまでもないことなんだろうけれど、それでも書いてみた。それは、年に何度か言われることが有るからだ。まぁ、お客様相手に講釈をたれても仕方がないので、笑って聞き流すことのほうが多いのだが。

今日も読んでいただきありがとうございます。料理名って、ホントに曖昧で概念なんだなって思う。ほら、カップ焼きそばのこと、みんな「焼きそば」だと思っているでしょう。あれ焼いていないんだよ。それでも良いと思っている。そういうことにしている。今、ぱっと思いつかないけれど、きっと料理に限らず、名前なんてそんなものなんだろうな。きっちり定義されているようでいて、案外ゆるいところもある。そのくせ、ちゃんと通じ合っている。なんとも不思議で面白いことだ。

タグ

  • この記事を書いた人
  • 最新記事

武藤 太郎

1978年 静岡県静岡市生まれ。掛川市在住。静岡大学教育学部附属島田中学校、島田高校卒。アメリカ留学。帰国後東京にて携帯電話などモバイル通信のセールスに従事。2014年、家業である掛茶料理むとうへ入社。料理人の傍ら、たべものラジオのメインパーソナリティーを務め、食を通じて社会や歴史を紐解き食の未来を考えるヒントを提示している。2021年、同社代表取締役に就任。現在は静岡県掛川市観光協会副会長も務め、東海道宿駅会議やポートカケガワのレジデンスメンバー、あいさプロジェクトなど、食だけでなく観光事業にも積極的に関わっている

-今日のエッセイ-たろう
-,