たべものラジオは、「食に関する文化や歴史などを“深堀り”して紹介する番組」だと思われている。その通りなのかもしれないけど、実はコンテンツを作っている本人としては「ちょっと違う気がするんだよなぁ」とも思っている。
“深堀り”であることは間違いない。実際に、深く深く海の底や山の奥に分け入っていく感覚もある。それと同時に、もっと上空から海や山を眺めるという感覚もある。
深堀りと俯瞰の往来
例えば「ミルク利用の人類史」を考えるときには、各地のミルクの利用方法にだけじゃなく、暮らしぶりや慣習などを調べていく。加工方法、料理のバリエーション、お祭り、日常生活は服装や住居に至るまで、細かく観察していく感覚。これは、深く掘り下げると言うか、ぐっと近づいて覗き込むような感覚。
一方で、頭の中に世界地図を広げてずらりと“並べて観察する”ようなこともする。これは近づくと言うよりも、ずっと遠くまで離れていって俯瞰するイメージだ。
このとき、頭の中の世界地図には、番組として取り上げなかった地域の情報も並んでいる。それも、ミルクの利用方法だけでなく、気候や文化や政治に関する事象がふわふわと漂っているようなイメージ。そうすると、一見つながりがなかったように見えた物事も、別の事象を間に加えることで繋がって見えることがある。
もちろん、そんな思いつきは素人の仮説にしかならない。しょうがないので、仮説を補強もしくは否定する材料を探しに行く。これがしんどい作業なんだけど、とっても楽しい時間。「この仮説、可能性あるぞ!」とワクワクすることもあるし、「違ったー!」と打ち砕かれてドキドキすることもある。どっちに転んでも面白いんだから、これはもうそういう性分なんだろうな。
繋がりを作るワンステップ
それぞれに関係のなさそうな事柄は、間に別の何かを挟むと繋がることがある。AさんとBさんは、顔が似ているとは言えないけれど、Cさんはどちらにもちょっとずつ似ていて、間に挟まるとつながりがありそうに見える。なんてことを、ずいぶん前にテレビの企画で見たことがあるんだけど、意外なものをつなぎ合わせる別の事象というのは、けっこうたくさんあるんだと思う。
ドロっとしたなれずしと、江戸の握り寿司は似ても似つかないが、間に早ずしや押し寿司があると繋がりが見える。江戸地方の郷土料理が全国区に広まったのも、プロモーションではなくて、関東大震災をきっかけに江戸の寿司職人が全国に散っていったことに起因する。ハンバーガーを理解するにも、ドイツからの移民やイギリスのサンドウィッチを間に挟むと流れがわかるし、複数の移民が共同社会を営むことで食文化が混ざったという視点で見るとわかりやすい。
こども食堂
こども食堂は、以前とはその役割が変わってきている。名前こそ“こども食堂”ではあるのだけれど、“みんなの食堂”に近い。「地域のみんなの繋がりを育む場」になってきているのだそうだ。わかりやすく名称変更したほうが良いんじゃないか、と思ったりもするのだけれど、それもちょっと違うんだろうな。
こども食堂は“食生活に恵まれない子どもたちの救済”が存在理由だった。金銭的に貧しかったり、両親の仕事の都合で満足に夕食にありつけなかったり、そういった子どもたちに温かいご飯を食べさせてあげたいという思いから始まったと聞いている。
ところが、こども食堂にはひとつ弱点があった。“こども食堂に行く”という行為は、貧困であることの告白になってしまったのである。背に腹は代えられない、とは言うけれど、人間の心はそんなに丈夫に出来ていないのだ。同じ境遇の人だけが集う場所というのも、心理的な負担になる可能性がある。そこで、地域の大人も子どももみんなで利用しようということになった。コストは増えたけれど、救いたかった子どもたちを救うことが出来るようになったし、集う人たちの温かいコミュニティが生まれたのは嬉しい副産物だった。こうして、今では救済対象だけでなく、地域全体のつながりを作る場になっているという。
"こども食堂”と“地域のつながり”は、近いようでいてなかなか結びつかない関係だった。一歩間違えれば貧困層とそれ以外の間に壁を作ってしまう未来だって、可能性としては考えられたわけだ。二つの間を飛び越えたのは、「貧困の告白にならないように」というワンステップがあったからだ。
こうして、少し引いて眺めてみると、やっぱり「こども食堂」という名前で良いのかもしれないな。ハイコンテクストにはなっちゃうけど、名前の奥に“みんなで食べる”という新しい意味が育ってきているような気もするしね。
文化になるということ
文化というのは、基本的にじわじわと生活習慣に馴染んでいくものだろうと思っている。法令や強力なプロモーションでなしうることもあるだろうけれど、その場合にはどこかに歪みが生じるものだ。場合によっては、それ以前の文化を消滅させることにもなりかねない。
いつの間にか、日本の主食は米に偏重することになり、それ以外の主食作物は減少していった。気がつけばおせち料理は正月だけのものになり、他の節句料理は影が薄れてしまった。かつては、アメリカの国民食と言われたハンバーグステーキも、「そんなものは無い」と言われるほどに忘れ去られてしまった。
これらの事例が教えてくれるのは、文化と経済との関係についてである。基本的にスピードが違うのだ。文化とは「じっくりと浸透していって、気がつけばそうなっていた」という性質がある。立ち止まって遠くを振り返ってみたときに、初めて変化に気づくというくらいなだらかな変化。これに対して、現代の経済はとてもせっかちだ。このギャップが、どこに歪みを起こしているのかを探さなければならない。たぶん、現在はそのフェーズにあるように思う。
特に、食は多様な文化と密接に繋がっていて、その変化はゆったりと力強いうねりのようだ。まだ直感に近い感覚でしかないのだけれど、うまく繋がるはずのワンステップがあるのではないかと思う。それは、ワンポイントを押さえればいいと言うほどに簡素でわかりやすいものではなくて、とても複雑でやわらかくデリケートなものなのじゃないかという予感がある。
今日も読んでいただきありがとうございます。
ときに深く入り込んでいったり、またぐーっと引いて眺めてみたり。そんな視点の移動は、面白いからやっているのであって、社会課題をどうにかしようと思って始めたことじゃないんだよね。だけど、勉強してみたらその知見が役に立ちそうな感覚が芽生えてきたんだ。どうせなら、必要とされているところでちゃんと使えたほうがいいよなぁ。と、思うようになったら、自然と語ることも増えてきた。まぁ、ぼくは楽しんでやっているだけなんだけどね。