今日のエッセイ-たろう

なぜ今、食の歴史がビジネスに効くのかーたべものラジオと食の未来

「たべものラジオ」が、ビジネスでどんなふうに役に立つのかを考えてみる。正確には「たべものラジオ」に限らなくても良い。「食とはなにか」「食と人はどのように関わってきたのか」という、歴史に刻まれた“問い”に向き合う。それが、どう役に立つのか。

まず最初に思い浮かぶのは、時間軸の長さ。これはぼくの性分だとは思うのだけれど、ジャガイモも砂糖もゴマも、原産地から辿らなければ気がすまない。なぜ、雑草が食べられるようになったのか。食べるためにどんな工夫があったのか。ここを起点にすると、食材の物語は数千年前から始めることになる。ハンバーガーは比較的新しい食文化だけど、それでも千年くらいは遡る。もちろん、その時代にハンバーガーは存在しないのだけれど、ハンバーガーが登場するために必要な食文化や、食に対する価値観が育まれた時代でもあるのだ。

べつに、長ければ良いってわけじゃない。でもどうしても長くなってしまう。理由は二つ。ひとつは、ぼくらが物語の途中にいるという感覚を得るということ。もうひとつは、先人たちがどのように向き合ってきたかを知ることだ。そのために必要な長さなんだ。

例えば、日本料理というカテゴリーを見てみよう。現代の和食で「フォーマル」だと多くの人に認識されているのはコース料理としての「会席料理」である。結婚にまつわるイベントや、接待、法事などで利用されることが多い。けれども、室町時代から昭和にかけてフォーマルとされてきたのは「本膳料理」である。誰かが「こっちをフォーマルとする」と宣言したわけではなく、いろんな影響を受けていつのまにやら変遷してきた。

従来の会席料理は、多くが酒とセットだったし、移り変わる季節を切り取って「移ろいを感じる」ことを主体としてきた。だから、会席料理にはメインディッシュという観念が存在しない。あるとしても、「◯◯づくし」といった具合で、それはクラシック音楽のソナタ形式のようなもの。テーマが変奏されながら展開していく構成は、特定の食材をいろんなアレンジで楽しもうという料理のスタイルと似ている。
ところが、近年になって西洋料理のようなメインディッシュを設定する飲食店も登場するようになった。今も、人々の認識とともに「日本料理」「会席料理」は変わり続けているのだ。

そうした中でも変わらないものがある。例えば、季節を愛でることだ。常に「最高の瞬間」を楽しもうというのではなく、移ろいゆく時間の中で「今ここ」を感じる。満開の桜は美しいけれど、それだけでなく花が少なくなった桜と根本に伸びてきた夏草の組み合わせも、それはそれで乙なものである。そうした風情も、やがて儚く消え去っていく。そんなものだと知りながら、その瞬間を楽しむのだ。普段は意識をしていなくても、食材や料理などを通じてしみじみと感じ入るというのは、根強く残る感性だろう。

宴会としての会席料理もなかなかのものだ。フォーマルと言いながらも、人が集まればワイワイと賑やかな宴となる。西洋料理ならば、食中酒としての軽めのワインがあり、本格的に酒を楽しもうということになれば座を変えるのが一般的。日本にも古くから同じ慣習はあったけれど、会席料理は酒の席と同義になったケースも少なくない。それは、今でも“酒のあて”としての料理が息づいている。

数十年、数百年の単位でゆっくりと食文化は変化していくし、残り続けるものもある。
その時々のトレンドは、数年ということもあれば100年ということもある。こうした流れに、先人たちはどの様に向き合ってきたのだろう。一般生活者の好みや流行は、文化や政治などから受ける影響もあるだろうし、気候の変化も見過ごせない。新たなテクノロジーが登場したときには、業界が大きく変化するのは今も昔も変わらない。先人たちの行動は、やがてポジティブなものとして現代に繋がるものもあれば、負の遺産となることもある。

長い時間軸の中で「私とは何者なのか」、「どんな役割なのか」を感じ取ることが出来るようになると思っている。それは、「食と人との関わり」を考えるうえで「自社のあるべき姿」を見定めるヒントになるだろう。

20世紀後期ごろから、多くの企業は株主への短期的リターンを求められるようになった。ゆっくりと時間をかけて社会に貢献する企業として伸びていくだけでは済まされない。決められた期日までに結果を出し続けなければならないのだ。そんな環境下で、長期ビジョンを維持し続けるのは難しいことだろう。下手をすると、本来の立ち位置を見失うことにもなりかねない。

イノベーションには、ヒラメキも必要かもしれない。だけど、じっくりと腰を据えた研究が必要だーと提唱者のシュンペーターも言っている。腰を据えた研究を進めるためには、資本が必要であるのはもちろんだけれど、それと同時に長期視野が求められる。歴史を知っていれば必ずしも未来を見通せるわけではないけれど、未来を見通せる人は、歴史を知っているー誰か偉い人がそんなことを言っていた気がするけれど、ホントにその通りだと思う。

生活者は、もう気づき始めている。目先の利益のためだけに動いている企業は、徐々に人気が落ちてきている。だからこそ、反動として社会起業家に注目が集まるようになり、エシカル消費がゆっくりとだが確実に増えている。そのプロダクトは、本当に社会のために良いのか、私達の幸福につながっているのか。本当にサスティナブルなのか。そんな視点を獲得し始めている。

A社は◯◯が健康に良いと言っているが、B社は△△こそが健康に良いと言っている。そんなふうに、ウェルビーイングに対して、個々バラバラな提案が乱立したら、生活者は何を信じていいかわからなくなる。多様であることは良いことだと思うけれど、組み合わせについては言及されづらいのだ。本当は、どんな組み合わせが私達の生活に幸福をもたらすのかを知りたい。答えはないかもしれないけれど、少なくともそこに向かおうとしているプロダクトや企業にこそ信用が集まる。そんな社会になってきているように見える。
明確なデータがあるわけじゃない。けど、現場感覚としてそうした空気が広がっているように感じている。もし、その通りの社会になってきているとしたら、食の未来について本質的な問いを持っていない企業は、見向きされなくなる可能性があると思う。

今日も読んでいただきありがとうございます。ぼくは、食文化史の専門家というわけじゃなくて、食文化オタクという程度。専門家にない特性と言えば、現役の料理人であり経営者であること。この視点を持って整理して伝えられるというのは、あまりたくさんはいないと思うんだ。例えば「朝食と働き方の歴史から現代の朝食を紐解く」とか。そういう繋がりから見える「現代の朝食に対する提案」は、それを販売している企業にとっては有益なことだと思うんだよね。

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武藤 太郎

1978年 静岡県静岡市生まれ。掛川市在住。静岡大学教育学部附属島田中学校、島田高校卒。アメリカ留学。帰国後東京にて携帯電話などモバイル通信のセールスに従事。2014年、家業である掛茶料理むとうへ入社。料理人の傍ら、たべものラジオのメインパーソナリティーを務め、食を通じて社会や歴史を紐解き食の未来を考えるヒントを提示している。2021年、同社代表取締役に就任。現在は静岡県掛川市観光協会副会長も務め、東海道宿駅会議やポートカケガワのレジデンスメンバー、あいさプロジェクトなど、食だけでなく観光事業にも積極的に関わっている

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