ぼくの靴にはキズがある。サラリーマン時代から履いている革靴も、好きで買ったブーツも、それぞれにキズがついている。時々手入れもしているし、それなりに丁寧に履いてきたつもりだけれど、やっぱりどこかにキズがついていて、ときにちょっと大きなキズがついてしまったときには、がっかりしてしまう。
公園で遊んでいるときに、うっかりと小枝にひっかけてしまったこともある。うっかり溝板の隙間につま先が入り込んでしまってつけたキズもある。子どもを抱きかかえたときに、ちょっと後ろに足を引いたら、そこにあったブロックにかかとを引っ掛けてしまったことも。いつのまにかついてしまった小さなキズもいくつかある。
キズがついているから駄目というわけでもなくて、磨くたびにキズがついた出来事を思い出していたりする。もちろん、キズなどつかないほうが良いのだから、後悔する気持ちはあるのだ。だけど、それと同時に愛着を感じている。ぼくと一緒に過ごしてきたという思い出が靴に刻み込まれているよう感覚。
法事があって、沢山の人の靴が下駄箱に並ぶことがある。みんな一様によそ行きの顔をした靴ばかりだ。孫のいるようなおじさんの革靴は、普段は家の下駄箱の奥で静かに眠っていたのだろう。高い靴もそうでない靴も、みんなピカピカで、あまりキズらしきものが見当たらない。そのせいか、なんとなくみんな似たような顔をしているように見える。
法事のお食事会で、少しばかりお酒が回ってくると、たまに靴を間違えて履いていってしまう人がいる。それも仕方ないのかもしれない。だって、みんな似ているのだもの。
普段から革靴を履いている人の靴は、やっぱりぼくと同じようにどこかしらにキズがあったり、変形していたり、色落ちしていたりと色んな表情をしている。仕事柄、いろんな靴を目にするのだけれど、いろんな個性があって面白いものだ。そんな靴たちは間違えられるようなことは少ないように思う。
型崩れもシワもなく、色鮮やかでピッカピカ。それを完璧というのなら、革靴という物質の完璧な姿は最初のうちだけだ。だけど、ぼくにとっての美しい靴は、ぼくが履いて少しキズがついているものなのだ。完璧でないからこそ、そこに物語が宿っていると感じられる。ちゃんと手入れして、なるべく良い状態を保とうとしているのだけれど、すこし欠陥がある状態が愛おしい。
もしかしたら、侘び寂びというのは、そういうことなのかもしれない。完璧を求めて手を尽くすのだけれど、完璧でないからこそ生まれる固有性を愛でる。
庭掃除をしていて、ゴミはもちろん落ち葉一つも落ちていない。それはそれで美しいのだけれど、千利休は木の枝を揺らしてハラハラと木の葉をちらしたという。
季節を愛でるように、過程や流れを楽しむ。旅の目的地よりも、その旅程を味わう。欠けた茶碗も金継ぎで補修した姿を慈しむ。なにやら、いろんな「欠け落ちた姿」があって、それぞれに良さを見出すというのが、どうやら日本の美意識にあるらしいと思う。いや、他の文化にもあるはずなのだけれど、日本ではそれが顕著だというのが正確な表現かもしれない。
日本の料理文化は、モダンアートのような意味を持つものでもなければ、完全なる美の形を形成するようなものではないように思う。ただ、季節の移ろいを更に写しておく。まだ盛りではない未熟な味も、旬を過ぎた食材も、そのままに置く。料理人の腕で最良と思える料理には仕上げるのだけれど、食材の物足りなさはそのまま現れる。引き算をするということはそういうことなのだろう。
その先は、食べる人の感性に委ねられる。少しばかり欠け落ちたところに潜む物語を感じて、いいなぁと感じ入る。そういうのが、食文化の中にあるんじゃないかと、ぼくなりに思いを馳せているのだ。
今日も読んでいただきありがとうございます。良いところもあれば欠けたところもある。というのが個性なんだろうと思うんだ。そのうえで全体を愛でるという感性。これを、モノや事象だけじゃなくて人間にも向けられたら、きっと味わい深い世界に見えるんだろうと思うんだ。なかなか出来ることじゃないのだけどね。