「数字の1は、なぁに?」
心のなかで続きを歌ってしまった人は少なくないだろう。「工場のえんとーつー」
日本で広く知られている動揺「すうじのうた」の冒頭だ。アラビア数字の形を色んなものに見立てていて、歌を歌いながら数字を覚えられるようになっている。
この歌詞が書かれたのは昭和32年の荒川区南千住。作詞家の夢虹二の自宅だそうだ。当時、自宅の周辺には煙突のある工場があって、それが数字の「1」に見えたという。町には煙突のある工場があるのが当たり前の光景であったし、工場には煙突があるものだというのが当時の常識だったのかもしれない。
今でも高い煙突を備えた工場はたくさんあるけれど、高度経済成長期と比べれば随分と減ったのじゃないだろうか。想像上の工場の風景には、電気工作機などがあって、あまり煙突の出番がなさそうだ。そのうち、子どもたちは見たこともない「煙突のある工場」を歌うことになるのかもしれない。
時代をずっと遡ると、工業地帯には水車が必須だった。時々この話をするんだけど、あまり信じてもらえない。よく考えてみたら、水車って人や動物の力を使わずに、自然からエネルギーを取り出せる装置で、無尽蔵に動き続けてくれるものなのだ。これはとても画期的な発明品だった。小麦粉もそば粉もこんにゃく粉も、水車が登場する前までは、人力で臼を引くしかなかった。サトウキビや胡麻を絞るのだってやっぱり人力だし、精米するのだって手間がかかった。
江戸時代になって産業が勃興していていくにつれて、各地域に水車が作られた。川沿いにいくつもの水車小屋が並んでいて、組織的に生産が行われる。そこで働く水車の管理者はシステムエンジニアだし、水車大工はハイテク機械を作る技師である。産業革命で石油エネルギーに置き換えられる前まで、工場とはそういうものだったといえる。
江戸時代の人たちが、水車小屋が立ち並ぶ風景を見て工場地帯だと感じていたかどうかはわからない。だけど、煙突のある工場がいっぱいある風景と、どこかリンクしているようにも思えるのだ。
新しいテクノロジーが生まれると、あっという間に色んなものが置き換えられていく。あれこれと工夫をしながら、いろんな産業に浸透する。で、気がつくと僕らの感覚も書き換えられてしまう。
昭和生まれのぼくにとって、煙突のある工場は映像として脳裏に浮かぶ。巨大コンビナートではなくても、そこここに存在していたから。これからは、のどかな水車小屋のある風景のように、ノスタルジックな気持ちになる人のほうが多くなるかもしれない。
フードテックを語るとき、3Dフードプリンターや植物工場、代替肉、ロボット調理器などが話題に上がる。それらの中には、数十年も待たずに当たり前のものとして生活の一分になるだろう。
歴史上でフードテックと呼べるものがあるか。という質問を受けたことがある。実は、たくさんあるのだけれど、そのほとんどは意識しないと気が付かないもの。現代では、それらが当たり前のものになっていて、かつての最先端テクノロジーだったことを想起できないのだ。
アグリテックであれば水田システムがそうだし、それを支える灌漑技術だろうか。挽き臼や搗き臼、それを人力から開放した水車は大きな変革をもたらした。ガスコンロは調理場の風景を一変させたし、それには換気扇の存在も欠かせない。電灯がない時代には、暗がりで複雑な調理をするのは難しかっただろう。冷蔵冷凍技術は、調理場だけでなく世界を一変させてしまった。
昔の生活は、もはや想像するしか無い。それほどに、価値観や世界観が変わっている。今この瞬間に進展しているテクノロジーは、きっと世界を大きく変えていく。社会の仕組みが、インターネットが存在していることを前提として作り変えられたように、個人の意思ではどうにもならないくらいに変わる。その時、現在の常識は常識ではなくなっているだろうし、未来には新たな価値観が常識になっているはずだ。
テクノロジーの進展とともに、ぼくら自身の価値観も書き換えていかなきゃいけない。そうやって、新たな社会を構築していくしかないのじゃないかな。だから、自分の中にある既存の価値観とか常識っていうのを、いつでも書き換えられる準備をしておくのが良いのだろうと思う。
今日も読んでいただきありがとうございます。食に関わる産業には、人文学的知見が必要だと思っている。その理由の一つが、今日の話なんだよね。テクノロジーとかシステムとか、なにかが変わると人間の感覚も変わっちゃう。ことの良し悪しはさておき、そういうものなんだ。で、それを過去の人間が見事に言い当てるのって難しいんだけど、複数形の未来を想像しておいたほうが良いと思うんだよね。