今日のエッセイ-たろう

パラダイムシフトで起きる軋轢。回避するための自己変革。 2025年2月28日

なんとなく、時代が道のような線のような流れを辿っていくとして。長い時間軸で捉えると、アッチに行ったりコッチに行ったりしているように思える。例えるなら、歩いているときはまっすぐに感じる長い道だけれど、地図などで俯瞰してみると実はゆったりと曲がりくねっている。歴史というものをそんなふうに捉えてみる。

人間が感知できる世界認識では、時間は止まることがない。だから、歩を止めることはないし風景は常に後方へと過ぎ去っていくものだとしてみよう。たまに、ぐいっとカーブを描くことはあるけれど、常に前に進む力が働いているから直角に曲がることは難しい。急ハンドルを切ったところで、真横に向かうケースは少ない。

いま、どんな映像を頭に浮かべているだろうか。ある人は風景の中を歩いているかもしれないし、またある人は上空から道の上を進む人々を眺めているかもしれない。もしかしたら数学のグラフを想像しているかもしれない。

社会的価値観の歴史的変遷を、ぼくはこんなふうに捉えている。

歴史上、時々かなり急角度でぐいっと曲がることがある。いわゆるパラダイムシフトが起きる瞬間だ。天変地異が起きたり、外国からの強い力が加わったり、農業革命や産業革命などの社会変革が起きたときが、これに当たる。要因はいろいろあるけれど、ぼくらが革命と呼ぶようなものは大抵急カーブだ。場合によっては、ほとんど直角に曲がるほどの変化があるかもしれない。西欧なら宗教改革もこれにあたるだろうね。

曲がるということは、社会変化の方向が変わるということだ。数学で言えばベクトルが変化する。方向も変われば進む力も変わる。

まっすぐに進んでいるときは良いけれど、曲がるときには必ず社会にひずみが生まれる。古い価値観は断罪の対象になるだろうし、社会の仕組みがグニャグニャとねじ曲がった力の集まるところでは、そこに生きる人達の生活基盤も捻じ曲げられてしまう。

歴史を勉強してみて、素人なりにそんなふうに感じ取ったんだ。

おっかないのは、予測不能な外圧でぐいっと曲げられてしまうこと。そうすると、その軋轢で多くの人たちの生活基盤が壊れてしまう。緩やかな変革であれば生活基盤や産業の仕組みを最適化する時間的余裕もあるだろうし、多少急激でも予測していれば対応の仕様もある気がする。

今、社会は変革期の真っ只中だと言える。一般的には第三の波と呼ばれる情報革命が取り沙汰されるけれど、食に関する業界も大変革の最中だ。食料生産というカテゴリだけで見ても、大きな変化がある。直近数百年の間、食料生産料は増え続けていて、人類が食べることに困る時代が来るなんて実感していなかった。多少の波はあっても、世界的に見れば食料生産料は右肩上がりだとばっかり思っていたんだ。だけど、そんなのは幻想だと僕らは知っている。上限があることに気がついてしまった。今はまだいいかもしれないけれど、上限が近いと認識してしまったことで人類の価値観は大きく変わった。もう、これだけで世界はグイグイと曲がっていると言って良い。

もし、自然環境が変化したら。もし、世界情勢が安定を失って万人の闘争状態になったら。もしを言えばきりがないけれど、危機感ははっきりと近くにいると感じている。ぼくもそうだけど、割と多くの人も感じているはずだ。

外圧によって強引に曲げられるくらいなら、自ら舵を切ったほうが良い。というのが、ぼくの持論。なぜって、そのほうが軋轢が少なくて済むから。巻き込まれ事故を零にすることは出来ないけれど、なるべく少なくすることは出来ると思うんだ。

社会課題に向き合うって、そういうこと。

良い方向へ向ける。という取り組みがある。

それと同時に、否応なく向かった先を良い世界にする。という取り組みもある。

どちらも同時に起こっていいし、共存できる考え方だろうと思う。

自ら舵を切るのは、強い力が必要で、それは力を持つものが司ることになる。そのとき、舵を切る立場の人は軋轢に巻き込まれる人のことを感知できない。もっと言えば、そんなところに気を配っていて対応が遅れてしまうことのほうが恐ろしい。だから、別の誰かが常に内輪の軋轢をケアしなくちゃいけないのだと思う。もちろん当事者もだ。

先日の掛川ガストロノミーシンポジウムでは、弱い文脈とか6等星という表現をした人たちが軋轢に巻き込まれる可能性が高い。あくまで可能性なので、フランス革命のように逆のパターンもあるわけだけれど、とにかく社会の中で注視しておく必要はあるし、自覚しておく必要がある。

なにより内輪が正しく機能したほうが、車というのはうまく曲がれるものなのだ。

合理性だけではなく形而上の概念も。言語地だけでなく身体知も。1等星だけでなく6等星も。欲張りなようだけれど、社会全体ではいい按配でバランスを見ながら進む。そういう感覚が今回の掛川ガストロノミーシンポジウムに繋がっているんだ。

今日も読んでいただきありがとうございます。書いている本人もびっくりするくらいに抽象的なイメージなのだけど、これ伝わるかな。伝わると良いな。

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武藤 太郎

1978年 静岡県静岡市生まれ。掛川市在住。静岡大学教育学部附属島田中学校、島田高校卒。アメリカ留学。帰国後東京にて携帯電話などモバイル通信のセールスに従事。2014年、家業である掛茶料理むとうへ入社。料理人の傍ら、たべものラジオのメインパーソナリティーを務め、食を通じて社会や歴史を紐解き食の未来を考えるヒントを提示している。2021年、同社代表取締役に就任。現在は静岡県掛川市観光協会副会長も務め、東海道宿駅会議やポートカケガワのレジデンスメンバー、あいさプロジェクトなど、食だけでなく観光事業にも積極的に関わっている

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