東三河フードバレーという構想がある。バレーは本来”谷”のこと。でも、この場合”シリコンバレーのような”という意味で使われているようだ。カリフォルニア州のサンフランシスコ南東にあるサンノゼやサンタクララという渓谷地帯があって、そこに半導体やIT 関連企業が集中していることからシリコンバレーと呼ばれている。東三河フードバレーでは、食の集積地帯となることを意図していて、「フードクリエイターの聖地」に発展させていくことを目指しているという。
フードクリエイターってなんだろう。
インターネットで検索すると、いくつかのキーワードが上がってくる。料理研究や商品開発、料理を演出する食器や小物などの演出、情報発信、観光、消費者と食の接点をデザイン、エコシステムの構築などなど。随分と幅広い。
新しいレシピを生み出す料理人もクリエイターだし、食品会社で新たな商品を開発する人もクリエイター。それらを消費者に届けるためにパッケージをデザインしたり、イベントを企画したり、広報をしたり。それから、食をメインとした観光をデザインする人もクリエイターになる。
一年中日本酒づくりを体験できる施設を用意している酒蔵があって、とても魅力的だ。ずらりと並ぶ菊栽培のハウスは夜には煌々と光っていて、ナイトツアーが行われていて、これまた面白い。二階建てのバスは、一階部分がキッチンになっていて二回部分が客席の移動レストランで、しかも屋根を空けることが出来るそうだ。このバスで産地を巡りながら食べる食事は格別の体験だろう。
料理人であり、たべものラジオというポッドキャストで食に関する知識を伝えているぼくも、もしかしたらフードクリエイターにカテゴライズされるのかもしれない。
なにを生み出しているのか。
料理や食品といった、新しいプロダクトを生み出す。それから、新しい食体験を生み出す。食事という行為に新しい解釈を付け加える。より健康に貢献する食品を生み出す。
思いつくままに書き出してみると、どうやら「新しく」という修飾語がつくのが多いようだ。
新しいものを生み出して、普及させる。で、多くの人たちに受け入れられることで新しい食文化が生まれて、やがて定着する。定着すると、それは当たり前になってしまうので、また新しいものを生み出すことになるのだろうか。ふむ、確かに食文化史を紐解けばそのように見える。握り寿司も、ハンバーガーもそば切りも、その歴史的成り立ちを見れば”新しい食品の開発”だ。
だけど、これらはどこかの誰かが素晴らしい能力を発揮してクリエイションしたものではない。様々な方法論や観念が組み合わさあって、ちょっとずつ変化していったもの。稀に、絹ごし豆腐を生み出した玉屋忠兵衛のように、技術的革新によって新しい食品を生み出すこともいる。だけど、やっぱり歴史の中では少数派で、“発明しようと思って発明した”という食品は、近代以降に盛んになった現象だろう。
クリエイションの二つの流れ
“発明しようと思って発明する”というのが、現在のビジネスシーンでは一般的だ。とても能動的で「イノベーションを起こす」という言葉によく現れていると思う。
一方で、「イノベーションが“起きた”」というケースもあるはずだ。意図したわけじゃないけれど、気がついたら変わっていた。という現象である。なぜか大流行したルーズソックスという平成のブームは、スーパールーズという靴下の役割を逸脱した存在を生み出してしまった。ムーブメントがなにもない状態で、「よし!これが当たるはずだ!ブームを起こそう!」と意気込んで発明したわけじゃあるまい。なんだか知らないけれど流行しているので、「こんなバリエーションがあったら売れるかも」くらいのノリだったのだと思うのだ。
小さなクリエイションが生まれる環境
クリエイターという言葉には当てはまらないかもしれないけれど、ちっちゃな変化の重なり合いはクリエイションに繋がりうる。これが真実なら、そのキーワードは「なぞる」と「ずらす」なのじゃないかと、思っている。
例えば、ぼくが一生懸命練習して父が作る煮物を再現しようと試みる。手順や調味料の配合なども、徹底的に研究して寸分たがわずに再現しようとする。だけど、近づけば近づくほどに、違いが埋まらないことに気がついてしまうのだ。その差はほんの僅かなものなんだけど、作っている本人からするとそれが気になってしょうがない。
なぞろうとするのだけど、そこにはズレが生じる。その埋まらないズレのことを、ぼくは“個性”と呼んでいる。個性というのは、出そうと思わなくても勝手に出てしまうものなのだ。
もう一つ事例をあげよう。
同じように煮物を再現しようとしていて、使うゴボウの産地を変えるとする。ちょっと香りが強いとか太いとか、煮物全体から見れば僅かな違いである。だけど、ほんのちょっと香りが強いから、それに合わせて醤油の量を加減したり、ゴボウの切り方を変えたりするかもしれない。クリエイションというよりも、微調整である。
なぞるという行為は同じなのだけれど、前者は「ズレた」で、後者は能動的に「ズラした」という違いがある。
最初のうちは「ずれ」がちょっとしかないから、煮物全体としては何も変わっていないと思われるだろう。もしかしたら「親父さんの味に近づいたな」と褒められるかもしれない。ところが、褒められたことを良いことに、手本を“父の煮物”ではなく“褒められた自分の煮物”に変えたとしよう。そして、また同じ小さな「ずれ」が生まれていくのだ。やがて、小さなズレは積み重なって全く新しい料理へと繋がるかもしれない。
実は、握り寿司も、ハンバーガーも、たくさんの「ずれ」が積み重なって生まれたもの。だから、食の歴史を調べると「われこそが元祖」という人がたくさんいて、いつどこで始まったのかがわからない。わかっているのは、新しい食品を産業として確立させたところから後の話だ。
クリエイターの聖地
そんな悠長なことは言っていられない。というのがビジネスとしての本音だろう。実際、ぼくだってそう思っている。長い時間をかけて生み出される「ずれ」を、大きくジャンプしていくのがクリエイターという存在だろう。雑に言えば、社会現象としてのクリエイションを「強制的に早送り」する行為である。そのために、多くの実験と研究でズレを短時間で起こし続ける必要がある。
社会現象の場合は、マーケットが自然に淘汰圧をかけてくれるし、ちょっとずつの変化を受け入れ続けてくれる。だから、マーケットをちゃんと観察していれば、ずらす方向性の検討をつけることが出来る。それに、いくつもの小さなズレはマーケットの中で受け入れられているから、次のステップの商品もすんなりと受け入れられやすい。
時短クリエイションの場合は、マーケットの受け入れを観察している暇はないので、シミュレーションと感性でマーケットとの差分を埋めていくしか無い。そして、マーケットが育っていないので、広報やデザインにコストがかかるというわけだ。
結果として「フードクリエイターの聖地」を現出させようと思ったら、幅広い産業が集積して連携することが肝になるのだろう。
茶産地として有名な静岡県には、茶の栽培を行う農家が多いし、加工業者も多い。だけど、それだけでは茶産業の聖地にはならない。茶筒、パッケージ製造、販売に必要なツール、それらを流通させる仕組み、茶農家が使う専用の機械を作る会社もあれば、加工機械を作る会社もある。あまり知られていないが、機械で使われる刃物専門の会社すらもあるのだ。「お茶に関係するツールで、静岡県内で手に入らないものなんてないよ。本社が県内じゃなくても、絶対に支店があるから」と、茶商を営む友人が言っていた。「フードクリエイターの聖地」を構想するにあたって参照すべき核心をついたセリフだろうと思う。
今日も読んでいただきありがとうございます。
フードクリエイターが集う環境を作るっていうのは、なかなか大変な事業だ。でも、すごく夢があって良いよね。なんたって楽しそうだもの。だからこそ、なんだけどさ。社会現象としての「なぞる」「ずらす」が起こり得る環境も大切にしたいとも思うんだ。“完璧なコピーを量産する”ことに固執すると、クリエイションが生まれないことになるからね。
登壇したトークセッションで、この話題に触れる予定だったんだけどね。結局話さなかったので、ここに置いておくことにしたよ。