戦国時代が終わって安定した政権が登場すると、武力による統治から文治の時代へと流れが変わる。いや「変わる」というより「武力を維持したまま、それを使わない様に為に教養を使って統治する」といったところか。必ずそうなるとは言えないだろうけれど、確立は高い。短い期間だけど、歴史を学び直して気がついたことだ。
そう言えば、日本武道はこころの修行がセットになっている。空手とか柔道なんかは、自分自身が凶器になってしまうからこそ、心を磨かなくちゃいけない。なんてことを、随分と前に師範から言われたことがある。ぼくの場合、さほど強くはなかったから凶器にはなっていなかったと思うけど。それでもやっぱり、そうした心得は必要だったと思う。
なにかしらの攻撃力を所有するって、そういうことだ。その力を何のために、どの様に行使するのかという判断をしなければならない。つまり、ある種の責任が発生するのだと思う。もし、力を気ままに行使するようならば「万人の闘争状態」になるだろうし、そうして得た権力は長くは続かない。常に反発する勢力が大なり小なりまとわりつくことになるからだ。人類は長い長い時間をかけて、そうならないための知恵を手に入れたのだろう。もしかしたら東洋思想にある「徳」というのは、その知恵の一端なのかもしれない。
現代社会で、ぼくらは武器を手に入れた。常時接続されたインターネットと匿名性の高い言論空間もそうだし、簡単には理解できそうもないAIや、複雑で高度な社会システム。金融資本主義も該当するだろうか。
武器というのは、もちろん使う人の力量によって攻撃力に差が出るものだ。達人の扱う剣と素人の剣では圧倒的な違いがある。一方で、何の警戒もしていない人に対しては、技術も腕力も関係なく人を傷つけることが出来るのが武器というものだ。ボタン一つで誰かを攻撃できてしまうのならば、もう個人の力量は関係ない。武器そのものが、「誰でも扱える」という方向へも発達してきたように見える。
SNSやAI、複雑化した社会システムー現代人は無意識のうちに「武器」をたくさん持っている。だからこそ今、基本的なところから学び直す時代に来ているのだろう。言葉の扱い方や、社会の仕組みなど、力を行使すれば誰にどんな影響を与える可能性があるのか、といったことを知っておかなくちゃいけない。昨今のSNSでは、一部で意図的に攻撃的な言葉が飛び交っているのを見かけるが、攻撃の意図がなくても誰かを傷つけてしまうかもしれない。そうしたところに「思いを馳せる」には、社会の仕組みや文化はもちろんのこと、人そのものを理解しようとする姿勢が求められる。
ひとつには、人文社会科学や哲学、歴史なども役に立つだろうと思う。誰かの思想に完全に染まる必要はないけれど、これまでに積み上げられてきた知見を自分の中に取り込んで糧にするのは良いことだ。それから、社会システムがどうなっているかもよく見なくちゃいけない。例えば「年金受給年齢が引き上げられる」というニュースを聞いて、「もらえるのが遅くなるの?!」と反射的に怒りそうになるかもしれない。でも、自tyは受取のタイミングお選択肢が広がっただけ、なんてこともある。
そういった現状のシステムを、きちっと理解するためには、ある程度は能動的に情報を取りに行かなくちゃいけない。そして、自分の頭で理解するのも大切なことだ。
学ぶだけではなく、体を動かして体験することも大切だと思う。ぼくらはパンデミックで知ったはずだ。オンラインで交流することも可能だけれど、直接会うことでしか得られないものがあることを。世界の絶景は写真や動画で知ることが出来るけれど、その場にいかなければ体験できない感覚がある。土に触れてみたり、水をすくってみたり、実際に調理して食べてみる。そんな五感を通した体験が、「社会」というちょっと遠く感じるものに、体温を与えてくれるんじゃないだろうか。身体を使わなくちゃ得られない思考だってあるのだ。
一見すると、労力のかかることだし面倒なことだろう。だけど、やることは今も昔も同じである。ただ、昔は学び直すためにかかるコストも高かったから、一部の人だけが実行できるような環境だった。それに、社会的に安定していた時期もあったから、誰かに委ねるしかなかったのだろう。それに比べて現代は、誰でもその気にさえなれば調べたり学んだりすることが容易にできるようになった。以前より面倒な時代になったのではなくて、実際は便利になっている。ただ、放棄する言い訳を失っただけのことなのだろう。
ぼくや家族が食べる食料は、他の誰かのお陰で手元にある。フードシステムが社会インフラとして存在しているからこそ、ぼくらは食事ができるのだ。食料は命の源。ぼくらはシステムを信じて、システムに依存することで命を繋いでいる。これを悪用するとまではいかなくても、運用を間違えて望まない結果をもたらす可能性だってあるわけだ。
これほどのシステムについて、きちんと理解することは有用だと思う。享受する側であってもそうだし、システムを運用する側であってもそうだ。力そのものの是非ではなく、それをどう扱うかが問われる。だったらぼくらも、現代の“見えない武器”を手にしながら、それを正しく扱う感性やセンスを、日々ちょっとずつでも磨いていけたらいい。
今日も読んでいただきありがとうございます。たべものラジオというコンテンツも、実はこうした部分で社会に貢献できているかもしれないよね。新しいテクノロジーとか、新しい食体験とか、新しい産業とか。そういったものと向き合う知恵のきっかけとして。