発砲事件とルール。2022年12月17日

パーン。乾いた破裂音が裏山に響く。どこかでタイヤがバーストしたのだろうか。と思っていると、妻から電話がかかってきた。「裏の池で鴨が撃たれた。」という。

当店の庭は小さいが、その先には農業用のため池と山がある。山といっても大きなものではなく、しばらく前までは茶畑が広がっていたところだ。今では、そのほとんどが耕作放棄地となっている。とは言っても、その池の周りには今でも畑があり、時折畑の手入れをする人がやってくる。気持ちの良い日には、近所の人やぼくの妻子が散歩に訪れる。

店の影に隠れているために、目立たない池。その存在を知っているのは、地元の人くらいだろう。

それでも時々は見知らぬ人がやってくることがある。おそらく、地図で発見したのだろう。大抵は釣り竿を持っているから、バス釣りでもしたいのだろう。だが、この池にはブラックバスはいない。百年以上前に掘られたこの人工池には、注ぎ込む川がない。川がないから、そこを伝って各地に繁殖するブラックバスもやってこなかった。だから、今でも鯉や鮒が大きくなって、のんびりと暮らしている。白鷺や鴨が水面をゆったりと進んでいる。日常の光景である。

その日常を打ち破ったのは、市外からやってきたハンターである。ハンターと言っても、猟を生業としているわけでもなく、害獣駆除を行っているわけでもない。ただただ、純粋に趣味として狩猟を行っている「おまちのひと」だ。狩猟免許も持っているらしい。

たしかに、裏の池や山は禁猟区に指定されてはいない。指定されていなければ、そこでの猟が可能なのかというとそういうわけでもない。人里の生活空間における発砲は厳しく罰せられる。住居から近い場所ではなおさらだ。明確な距離は規定されていないけれど、300~500mというのが目安らしい。

裏の池と表記している通り、当店と池は隣接している。それに、住居もある。百歩譲って、当店が住居に該当しなかったとしても、隣にはアパートがある。そんな場所での発砲は認められていない。

声をかけると、野山や野池での猟は禁じられていないという。そのとおりだ。民家に向かって撃っているのではなく、池の方向である。それもその通りだ。しかし、その池の脇には歩道があって、畑もある。ちゃんと無人であることを確認したのか問うと、それはしていないという。そこに畑があることも知らなかったと。ほんの10分ほど前に、赤ん坊を抱いた妻が散歩していたことを思うとぞっとする。

一応、警察に通報して対処をしてもらったのだけれど、当人は不満のようだ。禁止されていない場所で猟をして何が悪いのかと言っていた。いや、民家の近くは禁止なのだが。あちこちの山が開発されてしまって、猟が出来る場所がないではないか。ぼくに向かってそんなことも言っていた。知ったことではない。ゴルフ場が減ってしまってゴルフが出来ないというのと同じ理屈である。しょせんは趣味なのだ。危険を伴う以上は、ご自身でなんとかしていただくより仕方がない。

猟師の方々には、お世話になったことがある。最近は少なくなっているけれど、それでもイノシシなどが出没することがあって、駆除をお願いすることだってあった。その場合には、近隣の住民には事前に声掛けをし、周囲の確認を行い、チームで行う。生活の中の猟は趣味とは別物だ。

ルールや許可というのをどうにも履き違えてしまうことがあるらしい。このエリアでは駄目だと明記されていなければ良い。そういうことで作られたルールではないように思う。ちゃんと安全管理が出来る人だと認められた人が、猟銃を所有することが出来て猟を行うことが出来る。そういうものだ。

祖父も猟銃を所有していたが、若い頃は免許制度などなかったそうだ。その代わりに、親や近隣の人たちから厳しく指導されて銃の扱いを覚えたらしい。当時の野山では、獣と共存しており生活の一部だったからだろう。しかし、状況が変わり指導する人も風潮も消えた。誰でも銃を所持できる状態というのは危なくてしょうがない。だから、ちゃんと管理できる人だけに許可を与えるということにした。そういうことだろう。だから、住宅街が禁猟区域になっていないのだ。わざわざ地図に色を付けなくとも、現地で判断できるからだ。判断には知識と良識と能力が求められる。自動車の免許制度と同じことだ。どんなに筆記試験で優秀な成績だったとしても、路上での判断や運転技術が認められなかければ、運転免許は発行されない。

今日も読んでくれてありがとうございます。ルールっていうのは、なければ無いほうが良い。というのが持論。全員が優秀で、全員が同じ価値観であれば、不要なのだ。しかし、人数が多くなるとそうもいかなくなる。暗黙知では対応ができなくなる。どこかの偉人が言っていたけれど、ルールっていうのはバカが存在するからあるって。ちょっと言いすぎだと思うけれど、本質はそんなところかもしれない。

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